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    あれやこれやのなんやかんや

    多趣味というか関心のあるものが多いので、趣味のことから政治的なことまで書きたいことを書きたいように書いていきます。

    Category: 映画 > 娯楽映画、劇映画、シネコン   Tags: 映画レビュー  

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    『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』/両極点からの地球讃歌


    去年の年末に成田のIMAXで『ゼロ・グラビティ』を観てきました。

    評判通りの素晴らしい映画でした。
    ただ、いままでは感想を書く気になりませんでした。
    成田のIMAXについてはもういままでに何度かレポートしてるし、
    大ヒットしたハリウッド映画ということもあってネット上には同じような感想やレビューが溢れてるし、批判してる人はみんな誰もが気付くようなところを得意気につっこんでるしw
    高く評価してる人が書いてるのも、精子と卵子のメタファーとか、へその緒とか、胎児とか、生と死とか、再生の物語とか、だいたい同じだし。
    あと「ゼロはいらない」ってこととかね。
    あとは『2001年宇宙の旅』との比較とか。
    全部その通りだし同意もするんですが、ちょっと当たり前過ぎるんですよね。
    ハリウッド映画にしては説明的な描写が少ないとはいえ、意外にわかりやすい映画だったということでしょうね。
    自分もこの映画の宇宙描写の説得力やCGの素晴らしさ、宇宙でのパニック劇を描きながらも人間の内面を描写した深みのある物語、隠喩の多さやメッセージ性の強さなど、素晴らしいと思いました。
    ただ、観るのが遅過ぎましたね。公開直後に観ていれば上に書いたような、ありきたりのことを喜んで書いていたと思いますw
    でも完全に後続組になってしまったので、「言い尽くされていることを書いたってめんどくさいし、かといってそれと異なるオリジナルな視点や感想は持てなかったしな。」ということで、お蔵入りしてました。

    しかし!
    つい先日「笑ってコラえて!」で『かぐや姫の物語』の特集を見て触発されてしまい、その翌日の朝イチで『かぐや姫の物語』を観てきたんですがw、もうね、心底感動してしまいました!
    と、同時にエンドロールが終わってすぐ自然に『ゼロ・グラビティ』のことを思い出して、自分の中ではきれいに繋がってストンと腑に落ちて、二重に感動してしまったわけです。
    この感動はぜひ文章にして残しておきたいなと思ったので、書いてみたいと思います。
    でもひとつの記事で大作2作を同時に捌かないといけないので、アクロバチックでめんどくさくて長ったらしい文章になりそうなのでもう書くのやめたいですw。


    ++++両極点からの地球讃歌++++

    『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』は言うまでもなく、何から何まで対照的な作品である。
    実写とアニメ、ハリウッドとジブリ、最新の物語と最古の物語、最新のデジタル技術と恐ろしくローテクな職人技、91分と137分。
    宇宙と、地球。
    CGの極点と、アニメーションの極点。

    しかし、何もかもが対照的なこの2作品は、観終わった後であっけにとられてしまうほど、全く同じことについて描いている。
    そして、CGの極点とアニメーションの極点であるこの2作品は、ちょうど北極と南極のように、何もかもが対照的でありながら、何もかもが共通点に満ちているのだ。


    ◎『ゼロ・グラビティ』の狂気◎
    『ゼロ・グラビティ』は無重力空間のリアルな描写が素晴らしい。
    あの映像は、役者以外のほとんど全てが最新のCG技術によって作られている。
    あの地球もCGだし、スペースシャトルもISSもスペースデブリの衝突シーンも当然CGだ。
    そして驚くべきことにヘルメットのガラス面すらもCGで作られている。つまりヘルメットに映り込む地球も、呼吸によるヘルメット内のくもりまでもCGだ。

    この映画は、宇宙空間を描いたCG映像と、役者を捉えた実写映像を切れ目なく繋ぎ合わせることで作られている。
    そのためには、CG映像と役者の動きはもちろん、脚本や演出、照明やカメラアングルに至るまで、全てをあらかじめコンピュータ内で徹底的に計画しておく必要があった。

    役者の動きは何から何まであらかじめ全て決められていて、その通りにコンピュータ制御された革新的な12本ものワイヤー・システムによって360°どの方向にでも役者を自在に動かすことで、あの無重力状態での動きをリアルに再現することに成功したそうだ。
    サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーにとって、その撮影は相当に過酷なものだっただろう。
    さらにすごいのは、宇宙船内でのタンクトップとショーツという薄着でのワイヤーアクションすらも可能にしたことだ。

    無重力を表現するためのカメラも、あらかじめ構図やアングルが設定され、
    役者同様に複雑に動き回ったり回転したりする必要があった。
    そのために産業用ロボットの多関節アームのような装置を開発してもらったそうだ。

    宇宙空間を再現するための照明は非常に難題で、宇宙空間のハッキリとした陰影や、地球の照り返しなども含めて計算し、その複雑な光を忠実に再現する必要があった。そのために開発されたのが「ライトボックス」という装置。
    1枚60cm四方のパネルに4,096個ものLED電球がはめ込まれたものを196枚も使うことで、どんな光や色でも照射でき、それをどんな速度でも自在に変更することができる巨大な照明ボックスを作り上げたのだ。

    つまり、その巨大な「ライトボックス」の中でめまぐるしく変わる複雑な照明を浴びながら、12本ものワイヤーによって吊るされた役者が、全ての動きをミリ単位で制御された極端に自由度の低い状態で、あれほど高レベルでリアルな演技をやってのけ、それを多関節アームによってどんなアングルからでの撮影も可能にしたカメラで、あらかじめ決められた構図やアングルで寸分の狂いもなく捉える。
    その実写映像を、こちらも相当の手間と技術を要したであろう最新のCG映像と、寸分の狂いもなく繋ぎ合わせることで、この映画は作られているのだ。
    まさに、狂気じみている。
    この狂気じみた撮影方法によって、映画史上最も説得力のある、あの無重力描写が創り出されたというわけだ。
    ちなみにキュアロン監督はこの映画の企画段階で、ジェームズ・キャメロンとデイビット・フィンチャーに相談しにいったそうだが、二人とも「技術が開発されるまで待て」と言ったそうだw
    そして実際その通りになった。本作のためだけに様々な技術が開発されたが、その開発期間も含めると、この映画の製作にはトータルで4年半もの歳月がかかっているのだ。

    この映画のIMAX3Dは、前評判ほどの効果は感じなかったものの、スペースデブリが衝突して破片が飛び散って超高速で向かってくるシーンではビクッとして顔を何度か避けたw 隣に座ってた人は顔に穴が空いて即死してしまった。かと思ったw。
    またそのシーンなどで鳴らされる音楽も印象的だった。
    宇宙空間での音響効果というのはこれまた難題で、音(=振動)を伝える空気がないので、効果音はライアンの体を通して伝わってくるというように設定され、音楽は音響効果も併せ持つようなものをスティーブン・プライスに要求したそうだ。その結果、煽られてる感じがあってやや煩わしかったものの、スペースデブリの衝突シーンではまんまと緊張感をMAXにさせられてしまった。
    また、音響効果を併せ持つ音楽とはよく言ったもので、音楽はサラウンドにミックスされていて、初めは全方位から包み込むように鳴り響き、しだいに宇宙空間の暗い中心点へと吸い込まれていくように緊張感を高めていく。それが視覚効果と相まって、実際に自分もそこにいるような気分にさせてくる。
    宇宙空間の静寂を表現する「無音」の使い方も効果的だった。

    そしてなんと言っても、キュアロン監督の作家性が凝縮された驚異の長回し映像。
    それら全ての狂気的な要素が、キュアロン監督の確かな視線の先に高次元に重なり合い、長編としては短い91分という時間にギュッと凝縮された映画がこの『ゼロ・グラビティ』なのだ。

    このメイキング映像は圧巻かつ狂気に満ちているのでぜひ見て欲しい。

    ◎『かぐや姫の物語』の狂気◎
    『かぐや姫の物語』は、まさにアニメーションの極点と呼ぶに相応しい映画だ。
    これ以上のアニメーションはいままでなかったし、これからも作られることはないのではないか。
    『かぐや姫の物語』の大きな特徴は、スケッチ風かつ水彩画のような作画で、背景も人物も同じような筆致で描かれることで1枚の絵画がそのまま動き出すような、その作画の凄まじさにこそある。

    笑ってコラえて 140115 スタジオジブリ かぐや姫の... 投稿者 plutoatom1
    これはもう、この例の「笑ってコラえて!」の特集を観てもらった方が早い。
    しかしこの番組もすごいな。
    ジブリを捉えたドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』では、宮崎駿監督と鈴木プロデューサーが中心で『かぐや姫の物語』の制作風景についてはほとんど映されていなかったから(製作中にカメラを回していたら高畑監督に怒られたそうだw)、このメイキング映像はかなり貴重。
    高畑監督が敬愛する、あのフレデリック・バック氏との最後のシーンは感動的だ。
    フレデリック・バックがいたからこそ作られた映画がこの『かぐや姫の物語』であり、しかしそういうスケッチ風/絵画的な作画だからこそ製作に8年もの時間がかかり、完成した映画をようやくバック氏に見せることができたその僅か8日後に、偉大なアニメ作家フレデリック・バックは安らかな眠りについた。なにもかもが、奇跡の橋渡しを見ているようだった。

    そのうち動画が消されてしまう可能性もあるので、簡単に文章でも説明しておくと、
    アニメーションは「動かない背景」と「動く人物」で構成されていて、一般的には背景と人物はそれぞれ別の様式で描かれる。
    背景は動かないので、かなり自由な様式で細かく描き込むことができるが、動きのある人物などは全て繋がっている均質な線で絵を描きそこに色をはめ込んでいく。
    そのように単純化して描かなければ色を載せたままキャラクターをなめらかに動かすことができないからだ。
    しかしこの映画では、背景とキャラクターが一体化し、まるで1枚の絵画が動き出すようなアニメーションを実現している。
    作画は全てスケッチ風で、その描線の一本一本の太さも違えば、かすれ具合も違う。
    原画担当が描いたそのスケッチ風の絵を元に、アニメーター達はその描線の筆致を一本一本全て真似て、動画部分となる中割りを描き、スケッチ風の絵がそのまま動くように描かなければならない。
    背景はまるで一枚の絵画のようで、描かれない余白が残され、その空間が美しさや想像力を引き立てている。
    そしてその色彩は水彩画のように淡く優しく瑞々しい。

    ただし、これをアニメーションでやるとなると、とんでもないことになるわけだw
    スケッチ風の作画を動かすだけでも上述したような手間と技術を要するのに、そこに色をつけるためにはスケッチ風の絵を元に、色塗り用の塗線動画(全ての線が繋がった絵)をまた別に作画しなければならない。スケッチ風の絵は穴だらけで、塗りつぶす範囲をコンピュータが認識できないからだ。
    さらに、通常のアニメーションでは髪の毛は影の部分と光が当たる部分を分けて2色で塗りつぶすことで描かれるが、
    この映画では、かぐや姫の長髪が活き活きと舞う描写のために、髪の毛の濃淡までも色彩豊かに塗っている。
    そのためには平面的に塗りつぶさずに数種類の色を使って濃淡を出す必要があるが、その重ねる髪の毛や色だけをまた別に作画して重ねているのだ。
    さらにさらに、かぐや姫の服にはほとんどのシーンで花柄がついているが、これも囲い線がなく淡い色のみを載せる描き方なので、花柄だけの絵をまた作画して重ねなければならないのだ。
    その結果、重要なシーンでは1カットのかぐや姫を描くためだけに7枚もの作画が必要になったという。通常なら1枚なのにw
    しかしそのおかげで、あの桜の下ではしゃぐ姫のシーンでは、スケッチ風の強弱のある線で描かれた何本もの髪の毛の勢いある動きと、複数の色を使って黒髪の濃淡までも表現した色彩が見事に重なり合って動いている、というより生きている。そしてそれが背景の色彩豊かな桜の水彩画に見事に溶け込んでいるのだ。

    つまり、もうめっちゃくちゃめんどくさいことをしているわけだw。これはもう正気じゃないと言っていいw。
    ジブリはもともと手間をかけて高いクオリティのアニメを作っているので、他の作品の作画枚数もかなり多いが、それでも数万枚から十数万枚ほどだ。ちなみに『風立ちぬ』は約14万枚だそう。
    だがこの『かぐや姫の物語』の作画予定枚数は、なんと驚異の50万枚だったそうだw。もうアホやんw。まさに狂気w。 

    その結果こんなことになってるw こんな感じで137分だw
    ちなみに、スケッチ風の作画ばかりに目がいってしまいがちだが、この映画には1シーンだけCGを使って水面を描き出しているシーンもある。
    この映画に限らず、ジブリ映画は水面をCGで描くことがある。そのときの透き通った鏡のような水面とそこに映り込む光や色彩までを美しく描き切ったCGは、手描きの絵との対比も相まって息を飲むほどに美しい。

    そして、『かぐや姫の物語』は音や音楽にも妥協が一切ない。
    この映画では、豪華な声優人達の演技に制限を与えてしまわないために、
    絵に合わせて後からセリフを収録するアフレコではなく、先にセリフを収録してしまうプレスコという技法が使われている。
    当たり前だが、完成したアニメの動きにピッタリ合わせて人が演じるのと、人が演じたものにピッタリ合わせてアニメを作るのとでは、後者の方が尋常ではなく難しいし手間もかかる。
    しかし、このプレスコのおかげで、惜しくも亡くなってしまった地井武男さんの最後にして最高の演技を聴くことができる。
    また、この映画は音楽がかなり重要な位置を占めているが、中でも高畑監督自身が作詞・作曲を手がけた「わらべ唄」と「天女の歌」はとてつもない完成度だ。この人まじでバケモノだな。
    地上の唄である泥臭くて陽気な「わらべ唄」と、地上から月へ帰った天女が歌っていたという、高貴で美しいのに寂しさと地上への想いに満ちた「天女の歌」。
    そしてその2つの歌の謎を最後に解き明かして繋げてくれる、二階堂和美さんの「いのちの記憶」。
    「必ず、憶えてる、いのちの記憶で。」この最後の歌詞が、かぐや姫の最後の涙をより一層透明に輝かせるのだ。
    Blog. 「かぐや姫の物語」 わらべ唄 / 天女の歌 / いのちの記憶 歌詞紹介
    そして、劇中音楽はいまや世界的に有名な久石譲。
    上述の3曲がすでに揃っているという状態かつ、高畑監督の要求が「感情を表現しない」「状況にあわせない」「観客を煽らない」という映画音楽家泣かせのオンパレードな制約だらけの状況下で、あれだけの仕事をした久石譲は成熟した天才である。
    「笑ってコラえて!」でも紹介されていたかぐや姫が屋敷ではしゃぎ回るシーンでの、一歩引いた視点からの「タティタティティタ」も素晴らしいが、自分がもっとすごいなと思ったのはやはり最後の天人達が襲来するときに奏でている音楽だ。
    人間の視点から見れば敵としてやってくるのに、天人達が鳴らす音楽は驚くほど陽気で能天気だ。
    民族楽器を多用した音楽なのだが、それまで劇中で鳴っていた西洋的だったり日本的だったりする音楽とは、根底から異なる音楽を鳴らしている。これは映画を見ていてとても恐ろしく聴こえた。
    敵も味方なければ、怒りも喜びもない、ただただ陽気で能天気な音楽。価値観どころか存在からして異なっているのだ。

    もう、こうやって簡単に書き連ねるだけでも大変なほどの、多くの人の才能と努力と手間が惜しげもなくつぎ込まれて作られている『かぐや姫の物語』だが、やはりすごいのはそれだけの才能達を8年間も付き合わせてしまう高畑勲監督の力量なのだ。
    高畑監督は絵を一切描かないことでも知られている。アニメ監督なのに絵を描かないなら、一体何をするのか?一体何がすごいのか?
    確かに監督は絵を一切描かないが、監督の頭の中には「アニメーション」そのものが鮮明に描かれているはずだ。
    それも、脚本もセリフも背景も衣装も脚色も声も効果音も音楽も、ほぼ全てが備わった状態でだ。
    映画監督としてこれほど理想的なことはない。
    その絶対的な安心感と、それを具現化したときに一体何が起きるのか、その奇跡を見たいしその奇跡の一部になりたいという好奇心や欲求、そういう圧倒的な求心力が高畑監督にあったからこそ『かぐや姫の物語』は8年の歳月を超えて完成することができたし、アニメーションのひとつの到達点を示すことができたのだ。

    こうして、何もかもが対照的で、何もかもが異なるこの2作品は、
    まず第一に、製作の手法や技術や見せ方などの表層的な要素において、
    「映画創りにおける狂気の結集」という幸福な邂逅を果たす。


    ◇宇宙と死から、地球と生へ◇

    あぁ、ようやく内容に触れられるw(←どんな映画評だよw!)
    『ゼロ・グラビティ』は死と隣り合わせの宇宙空間をリアルに描くことで、地球のありがたみや素晴らしさ、そして地球上で生きる意味までも描き出す。
    サンドラ・ブロックが演じるライアン・ストーン博士は、娘を事故で失ったことで生きることに絶望していた。
    彼女は生きる意味を失い、無力感や虚無感を感じながら、ただ生きてきたのだろう。
    地上の賑やかさや煩わしさから逃れ、宇宙の静けさや孤独に心の平穏を求めていたようにも見える。
    誰よりも遠い場所まで行っているのに、宇宙に引きこもっていたのである(笑)。

    それに対してジョージ・クルーニー演じるベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキーは、飄々としていて陽気で明るい。
    宇宙兄弟に出てくるブライアン・ジェイの実写版のようだw。
    なんというステキおじさんだろう。
    しかし、スペース・デブリ(宇宙ゴミ)が自分たちのシャトルに迫ってるということを聞いてからの彼は、この上なく頼もしい。
    スペース・デブリ衝突の衝撃でアームごと宇宙空間に投げ出されてしまったライアンはパニックに陥ってしまう。
    体は多軸的に複雑に回転し続け、地球からはどんどん離れていく。
    そこには上も下もなく、空気も音もなく、重力もない。
    自らを繋ぎ止めるものがなにもないというのは、これほど恐ろしいことなのか。
    そしてそれは、コントロール不能な人生を暗喩しているようでもある。転がる石(ローリング・"ストーン")のよう。

    だが、彼女を繋ぎ止めるものは、まだひとつだけあった。それがマットだ。
    まるで精子と卵子のように(←結局書くんじゃんw)、あるいは万有引力のように、マットはライアンを引き寄せた。マットとライアンを結ぶホースはへその緒のようだ。(←こういうこと書いていきますよw)
    だがマットはライアンを物理的に繋ぎ止めただけじゃない。
    極限状態にも関わらずぺちゃくちゃと喋るそのたわいもない会話を通して、ライアンの精神を「地球と生」へ繋ぎ止めたのだ。自らの生を犠牲にしてまでも…。
    2人の演技も鬼気迫るものがある。あのメイキング映像を考えれば、この演技がどれほどすごいことかがわかるだろう。

    ISSの中に逃れ、宇宙服を脱いだライアンは胎児のように丸くなる。
    この薄着姿は『エイリアン』のラストシーンでのリプリーの下着姿へのオマージュでもある。
    鍛え上げられた肉体はムッキムキなので、すごいとは思ってもあまりセクシーさは感じないのが惜しいところw
    少し脱線するが、ここで書いておきたいのは「宇宙服なのにおむつを履いてない」とか「酸素がないのにムダな会話多すぎ」とか「そんな都合良くいくか」とかのツッコミ的な批判の生産性のなさだ。
    そんなこと作る側も見る側も99%の人がわかってるってw
    それでも、リアルさを犠牲にしたり、あるいは過剰に演出してでも、描きたい物語や伝えたいメッセージがあるからそう描くのであって、それこそが作家性なのだ。
    「ファンタジーではないが、フィクションである。」「フィクションであるが、ドキュメンタリーではない。」という位置にある創作物にしかできないことの可能性というのは、ものすごく大きいのだ。
    日テレのドラマも批判されて騒がれているみたいで、思うところがあったのでこれは書いておきたかった。

    そしてその結果、『ゼロ・グラビティ』は表面的には宇宙からのパニック脱出劇なのに、多くの暗喩に富み、非常に深く強いメッセージを帯びた傑作映画となり得たのだ。

    ライアンが実際に地上と繋がりを持つシーンもある。
    SOSの無線信号を発信していたら「アニンガ」と名乗る男との交信に成功するシーンだ。
    言葉も通じず、涙まじりに「メーデー」と繰り返しても「メーデー」という名前だと思われるw
    犬の鳴き声が聞こえ、二人で犬の泣きまねをする。子供の泣き声が聞こえ、亡くなった娘のことに想いを馳せる。
    あの状況でようやく繋がった交信で、言葉は通じず、感情の理解すらもしてもらえない悲壮感は尋常じゃない。
    しかし一方で、「言葉」「犬の鳴き声」「子供」という同じ認識で捉えることのできる共通点はあの宇宙空間にあってどれほど安心感を与えるものであったろうか。その共通点とはやはり「地球」であり「生」なのだ。
    ちなみに、この交信のシーンを地球側から描いたショートフィルムが公開されている。
    この映画の脚本を務めたキュアロン監督の息子でもあるホナス・キュアロンが監督して10人ほどのスタッフで低予算で作られたそうだ。題名は『アニンガ』(原題:Aningaaq)

    映画観た人にとっては衝撃だし、ラストシーンは素晴らしい。

    全てをあきらめて死を待つライアンだったが、最後に彼女を繋ぎ止めたのは、死んだはずのマットだ。
    最初は突然過ぎてポカーンとしたが、あの残留思念が具現化したかのような演出は素晴らしかった。
    マットは確かに彼女の中に生きていて、彼女を力強く「地球と生」へ向かわせる。
    「ここは居心地がいい。傷つけるものは周りにいない。静かで孤独な空間だ。
    だが、生きる意味がどこにある?
    君は娘を失った。これ以上の悲しみはない。大切なのは、今をどうするかだ。
    大地を踏みしめ、生きろ。」

    そして、「地球と生」への想いを取り戻したライアンは、いまできることを全力でやり、見事に地球への生還を果たす。
    宇宙船は無事に海か湖の水面に着地するが、水が入り込んできて、ここでも死にかけるw
    この水は羊水のようでもあり、すべての生命の根源でもある原始の海のようでもある。
    ライアンは必死で泳ぐが、体は重く水面までが遠い。軽快に泳ぐカエルや生い茂る水草が鬱陶しいw
    無事になんとか陸に辿りつき、土を握りしめ、「ありがとう」と口にする。
    この感謝は、マットをはじめとする自分を繋ぎ止めてくれた全てのことや偶然や奇跡、そして重力や水や酸素や土や命や地球そのものに対して、そして自分の生に対しての、とてつもなく重く深い「ありがとう」なのだ。
    ヘトヘトになりながらも力強く立ち上がった彼女の前には、残酷なまでに圧倒的な自然。
    そこで暗転し「GRAVITY」というタイトルが映し出されて終わる。
    最後のシーンで示されたのは、生きることの「重さ」。原題は『GRAVITY』であり、この映画は重力を描いた映画なのだ。
    その「重力」(生きる重さ)(他者や自然との繋がり)があるからこそ、この世界は美しく雄大で、生きる意味があるという普遍のメッセージ。
    そして、彼女は次の瞬間、力強く足を前に踏み出していくだろうという、確信と希望。

    人間が、地球上で、地球の恩恵を一身に浴びながら、自分の生を全うすることへの讃歌。
    そしてもっと大きな視点での、地球と地球上の全てのものへの讃歌。


    ◇地球の無常から、月の虚無へ◇

    『かぐや姫の物語』は『ゼロ・グラビティ』とは逆の構成で、もともと月(宇宙)の住人であるかぐや姫が地球での生活を送った後に月(宇宙)へ帰ってしまうことを通して、全く同じメッセージを照らし出している。

    かぐや姫は田舎の山中ですくすくと育つ。
    捨丸兄ちゃんや仲間達と共に野を駆け、山菜を採り、自然と共に生きていた。
    しかし、都に移り住むことになり、姫の運命は姫の意志を超えたところで転がりだす。
    まさに「コントロール不能な人生」だ。

    姫は最初は喜んではしゃいでいたが、しだいに姫としての振る舞いや慣習を求められることに窮屈さを感じるようになる。
    自分が望んだことではない現状に対する不満や寂しさ、そして心ない侮辱を聞いてしまった激しい怒り。
    貝殻を割り、十二単を脱ぎ捨てながら鬼の形相で疾走するシーンは圧巻だ。
    かつての自分の家に帰ると、そこには新しい親子が住んでいて、走りまくってボロボロになった姫は乞食と間違われて施しを受ける始末w(なんかここでの悲壮感も『ゼロ・グラビティ』の交信シーンと似たものがあるw)
    しかも、捨丸兄ちゃん達はすでに次の山へ移り住んでしまっていたのだ。
    この無常感はすごいものがある。姫の居場所はそこにはもう無くなってしまっていたのだ。

    かぐや姫は自分の運命を受け入れ都で生きることを決心するが、それでも姫としての制限を受け入れた中で、自分らしさをできる限り守って生きていこうと頑張る。その頑張りが、悲しくて愛おしい。
    贈り物の雀は逃がしてやるし、地位の高い5人の求婚者が来ても姫は無理難題をふっかけてそれを全て断る。
    だがその5人のうちの1人が、姫の要求に応えようとした際に事故死するという「コントロール不能の人生」の最悪の帰結として姫に襲いかかる。
    かぐや姫は罪を感じ「こんなものはニセモノよ!わたしもニセモノ!」といって里山を再現した庭園をめちゃくちゃにしてしまう。「みんな不幸になった。わたしのせいで...」と深く悲しむ。

    この映画では「竹取物語」をベースにしながらも、姫の内面を現代的にすごく丁寧に描いている。
    だからかぐや姫にものすごく感情移入できるのだ。
    そうして感情移入していくと、負の感情の方が圧倒的に多い。窮屈で閉塞感に溢れているし、無常観と悲しみに満ちている。他者とのすれ違いや価値観の違いをすごく感じてしまう。しかし、それでもこの世は確かに美しく、楽しいことや嬉しいことだってある。
    あの桜の木の下で姫が舞うシーンは、その直後の感情の激しい落差が観客に対してすごくイジワルな描き方でニヤッとしてしまうが、この世界の美しさや感情の高ぶりと同時に、この世界のめんどくささや自分の思うようにいかない憤りなどを見事に表現している。
    それはもう、月からやってきたかぐや姫を通して、この世界の現実を鏡のように映し出しているといえる。
    月が太陽の光を地球に照り返してくれるように、かぐや姫の存在は地上の暮らしを照らし出してくれる。

    帝に後ろからいきなり抱きつかれたことが決定打となって、姫は無意識に月に助けを呼んでしまった。
    その後、かぐや姫は翁と媼に、自分の正体や地球に来た理由、わらべ唄と天女の歌の謎についても告白する。
    わらべ唄と似た歌詞を違うメロディーで歌われるあの歌は、かつて地上にきたことがあった天女が口ずさんでいたものだったという。それは、わらべ唄をもとにした、天女のアンサーソングのようなもので、地上への想いを歌った歌だったのだ。

    「姫の犯した罪と罰。」というコピーだが、姫の犯した罪とは地球に憧れてしまったことで、その罰が地上での暮らしを一から体験させられることだったのだ。
    その罪と罰とは、あくまでも月(天上の世界)の住人の価値観によるものだ。
    では、本当にそれだけだろうか。あんな大々的なコピーが?
    自分はもうひとつの「罪と罰」があると考えている。それは地球の住人の価値観による罪と罰だ。
    かぐや姫は念願かなって地球上に生まれながらも、周りの環境に流されてしまい、最後まで自分らしく生きて幸せになることがかなわず、結果的に月に助けを求めてしまった。それが罪であり、地上のことを全て忘れて月に帰らなければならなくなったことが罰なのだ。
    実際に姫は捨丸との邂逅のシーンで「捨丸兄ちゃんとだったら、わたし幸せになれたかもしれない!」
    「生きている手応えさえあれば、きっと幸せになれた」ということを言っている。
    そして「天地(あめつち)よ、私を受け入れて」と飛び立つシーンがある。
    かぐや姫は、あのまま山で捨丸たちと一緒に「鳥、虫、けもの、草、木、花」という自然と共に泥臭く生きることができたなら幸せになれた。(でももう遅い)ということを言っているのだ。

    これは地球上で現代を生きる我々にとって、非常に考えさせる深いメッセージを含んでいる。
    地球上に生まれておきながら、自然をないがしろにし、自然と対立してしまっている人間に対する痛烈な皮肉をも含んでいるように自分は感じたのだ。(そしてこの皮肉は『ゼロ・グラビティ』でも感じたものだ。技術の進歩に伴って宇宙進出を果たした人類が、スペース・デブリという自ら引き起こした問題によって宇宙の過酷さに打ちのめされることになるからだ。また、地球に帰ってきたあとのシーンに人間や人間の建造物が全くなく、圧倒的な自然が描かれたことからもそう感じた。地球讃歌が第一義で、人間讃歌がメインではないのだ。)

    そして、ついに月からの使者が迎えにきて、全てを忘れてしまう羽衣を手に「この衣を被れば、この世の穢れ(けがれ)はすべて消え去ります」と言い放つ。
    かぐや姫は「この世は穢れてなんかいないわ。みんな彩りに満ちて、人の情けを...」と声を荒げるが、衣を被されて記憶が消えてしまい、抵抗を止める。

    上述したあの天人達の音楽が鳴り響く中、記憶が消え去ってしまったはずのかぐや姫の目には一筋の涙がこぼれる。

    それは「いのちの記憶」が流させる涙なのだ。
    天女の歌も「いのちの記憶」があるから歌えた歌なのだ。

    これほどの地球讃歌があるだろうか。これほど地球上の生物を祝福する物語があるだろうか。
    しかもそこには、コントロール不能の人生や無常などの一筋縄ではいかない現世の持つ深みを含み、
    さらには、文明の発展や自然の軽視に対する警鐘までも孕んでいるのだ。

    ラストシーンは月に浮かぶ赤ん坊のかぐや姫だ。
    「月が太陽の光を地球に照り返してくれるように、かぐや姫の存在は地上の暮らしを照らし出してくれる。」と書いたが
    、このラストシーンは「月を見るたびに、かぐや姫のことを思い出し、自分の暮らしを思い返してみなさい。」と言っているように映ったのだ。
    こんなもん感動しないはずがないw。とてつもない超傑作映画である。
    ちなみに「竹取物語ってこんなにすごい話だったんだ」という感想は間違っていると思う。誰もが知っている「竹取物語」を現代劇として再構築することで、高畑勲監督がものすごい奥行きと深みといのちを吹き込んでいるのだ。
    高畑勲、恐るべし。

    ++++まとめ++++

    つまり、
    『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』は、全く同じ時期に、全く異なる正反対の方法で、しかし同等レベルの映画的な完成度とビジュアルのかつてない美しさをもって、全く同じことについて描いているのだ。
    それは宇宙と地球、CGの極点とアニメーションの極点の、両極点からの地球讃歌であり、地球上で生きる我々へのメッセージでもある。


    さらに、ただ祝福するだけではなく、いまの我々自身の生き方を照らし出して振り返らせてくれる。
    祝福と同時に戒めを、戒めと同時に励ましを、励ましと同時に生きる力を与え、我々の人生すらも再生させてくれる。
    映画における新たな地平を開いたこの2作品は、我々の人生をも新たな地平へと導いてくれるのだ。



    この2作品は第一義的には、地球讃歌だ。地球とそこに生きる地球型生命体全てに対する壮大な讃歌。
    そしてその次に、我々に強く訴えかけてくる部分こそが、その地球上で生きる我々人間に向けられたエール。
    しかもどちらの物語も、地球上で生きることの苦難や障害や無常などの「生きることの重さ」について言及したうえで、「それでもこの世界は生きるに値する。」ということを言っている。
    ちなみに、もっと身近でより人間的なものになるが『風立ちぬ』も似たようなメッセージを含んでいる。
    同時公開しようとしてた鈴木プロデューサーも恐ろしいw もし同時公開だったらこの記事も『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』だったかもしれない。

    そして、もうひとつは、近代文明に対する警鐘と自然に対する感謝。
    これには異論がある人もいるかもしれないが、自分としては、地球を讃歌するということは必然的に近代文明の負の側面に警鐘を鳴らしているという点があるのではないかと思う。
    そしてそれを(自分は)この2作品の中の至る所で直接感じとった。

    簡単に言うと「地に足をつけろ」ということを言っているのだ。
    「GRAVITY」(重力)を踏みしめろ。「鳥、虫、けもの、草、木、花」を感じろ。と。

    そこから感じるのは今日性である。同時期に作られたということもあるが、これらの映画は時代が求めた映画であるように思えてならない。ものすごく現代を象徴し反映している物語なのだ。
    社会は成熟し、経済は行き詰まり、自然は破壊され続け、争いは絶えず、我々はただ何となく毎日を生きている。
    物があふれているが、心は満たされない。生きることには困らないが、何が幸せかも見えてこない。
    閉塞感を感じ、罪悪感を感じ、自分の存在すらも否定したくなる。
    そんな現代の地球を覆っている空気感を具現化しているように見えるのだ。

    それでいて、その絶望を優しく慰め、励まし、我々を再生させてくれる。
    それでも前を向いて生きる価値がこの世界にはあるのだ。と背中を強く押してくれる。

    このただでさえ奇跡的な2作品が、いまこの現代で、同時期に見ることができるという奇跡に、
    最後に「ありがとう」と言いたい。そしてこの喜びを「いのちの記憶」で憶えておきたい。



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    爆音大友克洋2013 『AKIRA』デジタルリマスター版

    12/7に爆音大友克洋2013というイベントに行って『AKIRA』を観てきました。
      DSC_0455
    爆音大友克洋2013とは、爆音映画祭を運営するboidが主催したもので、
    大友克洋さん本人の希望もあり、吉祥寺バウスシアターでの開催が決定したそうです。
    「爆音—これが正しい観賞の仕方です。 大友克洋」
    ということだそうですw。


    DSC_0456

    12/7~12/20までやってるので、気になる人はぜひ行ってみて下さい!
    公式HP→http://www.bakuon-bb.net
    ネットでの販売は終了したみたいですが、まだ当日券が残ってる作品は窓口でチケット買えると思います。
    当日券情報ここで見れます→http://www.baustheater.com/joeichu.htm
    35mmフィルム版の『AKIRA』や今年公開された短編集『SHORT PEACE』なども上映されます。
    フィルム版『AKIRA』も貴重なので観たかったんですが、芸能山城組の大ファンでもある自分はやはりリマスターによってハイレゾ音源(192kHz/24bit)の収録が可能になり、それが5.1chにミックスされたBD版『AKIRA』を映画館のスクリーンと音響で、そしてもちろん爆音で観たいということでこっちにしました。

    DSC_0457
    1Fのカフェスペースでは「大友克洋×河村康輔×上杉季明 コラージュ&ポスター展」が開催されていて自由に観ることができます。
    しかもなんと写真OKっぽいw! いや、実際のところわかんないんだけどw、注意書きがどこにもなかったし、みんなパシャパシャ撮ってました。
    だから自分も撮りまくりましたw!
    DSC_0458
    ばばん!!
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    うひょー!!!!
    DSC_0462 DSC_0464
    た、たまらん!!!!
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    や、やっばぁぁ!!!!
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    過去作のポスターもあります。
    DSC_0470
    そしてこれが今回の為に制作されたオリジナルポスターで、A1のビッグサイズで2000円で販売してます。
    ええ、買っちゃいましたともw。だってこれヤバ杉w。


    それではそろそろ映画の話に参りましょうか。
    自分は爆音映画祭に来るのもバウスシアターに来るのも初めてだったんですが、
    このブログでも書いてる通りIMAXとかHDCS館とか立川シネマTWOとかに行っていて、映画音響好きです。
    なので吉祥寺バウスシアターで爆音大友克洋をやると聞いて少し不安だったんです。
    「行ったことはないけど、バウスってミニシアターでしょ?」って思ってたからです。
    他の都内のミニシアターなどにはよく行ってたので、経験上スクリーンサイズや音響の点で不満が残りそうだなと。
    DSC_0476
    でも劇場に入ってこのスピーカーを見て安心しました。
    サラウンドスピーカーもしっかりしたものが設置されてましたし、スクリーンサイズも座席数に対して程よく大きめでした。映画館のHPによると4m×9.4mだそうです。
    DSC_0477


    ++++爆音『AKIRA』レビュー++++

    『AKIRA』は第3次世界大戦で新型爆弾によって東京が破壊されるシーンで始まる。
    スクリーンには巨大な爆発とその波動が映し出される。
    しかしその映像に音はリンクしない。音は静かなまま、映像だけが爆発の凄まじさを描き、それが逆に恐ろしく緊張感を高めてくる。
    そして「あんま爆音じゃない?」と気が抜けかけた瞬間。

    「ドゥーーーーーーーーーン!!!!!!!!!」
    !?!?!?!?!?!?!?!?


    揺れる揺れるwww!!会場も、椅子も、体も、心臓も!!

    YES!!!! 爆音!!!! YES!!!!もう大興奮!!
    超爆音じゃん!!
    鳥肌総立ち。おしっこ漏れるかと思った。

    そこからはもう、怒濤の2時間だった。
    ずーっと、にやけっぱなしw

    大友克洋はその世界観の凄まじさとそれを描き出す圧倒的な画力で知られているが、
    アニメーションでもここまでのものが作れるんだな。
    『AKIRA』は初めてじゃないし漫画原作も読んだことはあるけど、そのときはまだ子供だったのであまり内容もスゴさも理解できなかった。
    でもいまならわかる。圧倒される。
    とても25年前の1988年の映画だとは思えない。自分が生まれる前やがなw。
    なにもかもが、クリエイティビティの塊である。

    製作期間3年、制作費10億円を費やして作られたといわれているが、それも納得の神がかった作品だ。

    バイクのテールランプの残像や、躍動するスピード感。
    ネオ東京やスラム街、摩天楼、ぬいぐるみ、アキラ。
    25年経った今もなお先進的であり続けるその神懸かり的な世界観。
    大爆発シーンの巧みかつ芸術的な表現。
    スピード感がものすごいのに恐ろしく細部まで描き込まれているアクションシーン。
    一体どれだけの手間と労力がかかっているのだろうか。想像するだけでため息が出る。

    そして、それに呼応するかのように、もうひとつの天才、山城祥二と芸能山城組の音楽。
    5.1chミックスされた高周波を含むガムランとジェゴクの荘厳な響きは圧巻のひと言。
    さらにギターやシンセの加工された電子音や、芸能山城組の重要な要素である人の声や、世界の古今東西の伝統的歌唱法を取り入れたスケール感と実在感。
    縦横無尽に動き回る「ピロン」「ポロン」「ポロン」「ペロン」。
    力強く、陽気な「ラッセーラー」「ラッセーラー」!!
    涙ものの美しさのレクイエムの合唱「ねむれ アキラ ねむれ」「鉄雄 ねむれ」。

    曲としても変拍子やポリリズム、ペンタトニックや、生音と電子音の巧みな合成、幾重にも積み重ねられたオーバーダブ、録音やミックスに対するノウハウの蓄積と執念が生んだ圧倒的な音場空間やサウンドスケープ(無指向性マイクやダミーヘッドマイクを使ったり、ホール録音をしたり、通常では考えられないほどの手間と技術と機材を使っている)など、こちらも映像に全く劣らない恐ろしいほどの作り込みが伺える。

    最初に書いたように、自分は芸能山城組の大ファンでもある。

    ケチャ祭りに行って、PA席の後ろにいる山城さんにこっそりサインをねだってしまうほどw(写真右下)
    いまも写真左下の「Symphonic Suite AKIRA」を聴きながらこの文章を書いてる。
    そのブックレットには大友さんと山城さんのコメントが寄せられていて、こんなことが書いてある。
    「輪廻交響楽(写真上のCD)を聞いて、これは「アキラ」の音楽としては最も相応しい音楽ではないかという感を強めていました。」(大友さん)
    「もし音楽作りが不可能ならば、「輪廻」の一部分を使わせていただくことをお願いしてみようという思いで、」(大友さん)
    コミックス版AKIRAの大ファンでもあった山城さんは、喜びと同時に困惑し、当初は手に負える仕事ではないと断るつもりだったそうだが、
    この大友さんのラブコールを受けて、
    「「AKIRA」の音楽は、この作品のために監督が選択したアーティストが、この作品のために心血を注いで創り出したものでなければならない、こうなってはもうお断りすることはできない」(山城さん)と。
    こうして、大友克洋と山城祥二という、ビジュアルの天才と音の天才が、お互いの才能に惚れ込み、混じり合うことで、この『AKIRA』は誕生したわけである。

    大友さんが山城さんにお願いしたのは、「”劇伴”としてではなく”山城組の音楽”としての「アキラ」を創って欲しい、それを映画音楽として使う」ということだったそうだ。

    これがどういう意味か、その結果どうなったかは、映画を観た人ならわかるはず。

    ビジュアルも音楽も、どちらかがどちらかに従属することも優劣することもなく、また乖離することもなく、
    同じだけの天才的な鋭さを保ったまま、映画『AKIRA』のなかで共存し、呼応し、化学反応を起こし、互いを高め合っているのだ。


    そして、このBD版『AKIRA』を爆音映画際で観るということにはもうひとつ大きな意味がある。
    実は芸能山城組の山城祥二とはアーティストネームであり、本名は大橋力という著名な研究者でもあるのだ。
    彼の研究は音や民族文化についてのもので、近年盛り上がりを見せているハイレゾ音源の効果を実証した人でもある。すごい人なんやで。
    人間は可聴帯域外の20kHz以上の音は耳では聞こえないとされており、それを元にCDやDVDなどはデジタル化の際にその高周波部分をスッパリとカットしてしまっているのだ。
    しかし、大橋さんの研究で明らかになったことは、人間は高周波成分を体の表面で直接感じ取り、それを脳内で耳から聞こえている音と合成し補完している。という驚くべき事実。
    さらに、人間は高周波を感じとることで基幹脳が刺激を受け活性化し、音をより快く感動的に受容することや、より大きく聴く行動の促進、といった効果が現れるとのこと。
    さらには感覚が鋭敏になって、音だけでなく視覚情報についても快適性や美的感動が高まる可能性があるとのこと。
    その現象を大橋さんはハイパーソニックと名付けた。このネーミングは80年代だけどw
    でも研究はすごく真っ当なもの。英語論文がちゃんとインパクトファクターのある海外の学術雑誌に掲載されたりもしてる。
    自分の専門でもない分野について全く論文も書かず学術活動も一切せずに、自分の本の中でテキトーなデマを垂れ流すだけのような有名な科学者連中とは大違いなのである。
    詳しくはこちらをどうぞ→『AKIRA』ハイパーソニック・ワールドへようこそ

    そもそもハイレゾ音源というのはCDのフォーマットである44.1kHz/16bitを超えるクオリティの音源のことである。(この数字から言わせてもらうと、残念ながらCDの音は時代遅れであると言える。当然AACやMP3などはそこからさらにクオリティが下がることになる。)
    このBD版『AKIRA』に収録されているのは192kHz/24bitのハイレゾ音源である。
    サンプリング周波数がそれだけ高いということは、当然それだけ解像度が高く、より自然な音であるということだ。その点は家庭用の再生装置であっても誰もが比較的簡単に効果を実感できる。

    しかし、ここで問題となるのが、100kHz近い超高周波まで正確に再生できるかどうか。
    もちろん体の表面で感じとるため、ハイパーソニックを体感するにはスピーカーでなければならない。
    家庭用の一般的なプレイヤーやアンプやスピーカーで考えれば、ほとんどの再生装置は厳しいだろうw
    リンク先にはハイパーソニックを体験するための適切な機材なども紹介されてるが、
    個人レベルではなかなかそこまでやるのは難しいだろうw
    スーパートゥイーター足せばいいっつったって、よっぽどオーディオオタクじゃないとそこまでやらないよw

    そこでこの爆音上映だが、使われた機材についての情報がないので確かなことは言えないが、
    少なくとも見た感じ業務用のスピーカーなので、20kHz以上の高周波成分は確実に出ていたはずだ。
    100kHz近くまで出ていたとはさすがにちょっと思えないが、20kH以上の高周波成分はある程度まで出ていたいうことは言えるだろう。
    しかも爆音でwww。

    その結果、『AKIRA』がどう聴こえ、どう映り、どう感じたかは、観た人それぞれの中に答えがあると思う。(ニヤリ)

    滅多にできない、貴重で素晴らしい映画体験をさせてもらった。
    夢のような時間だった。
    ありがとう大友さん。ありがとう山城さん。ありがとうboid。ありがとうバウス。
    DSC_0473


    ++++AKIRAの内容と先見性、現実との相関について++++

    『AKIRA』の舞台は第3次世界大戦によって東京が壊滅したあと、東京湾上に新たに構築され見事な復興を果たしたネオ東京だ。
    その見事な復興と近未来ぶりの影では、暴走と暴力に明け暮れる少年たちや、小汚いスラム街、暴動やデモなどが至る所で起きており、ネオ東京の歪みや空虚さを巧みに描き出している。
    西暦は1919年。翌年にオリンピック開催も控えているという状況だ。
    現実にも2020年に東京でのオリンピック開催が決まったことで、『AKIRA』に予言的な何かを感じとったり、現実と重ね合わせる向きも見られる。
    しかし、そんな中身の薄い偶然の一致なんかに頼らなくても、『AKIRA』は製作当初から常に現実と地続きであったし、現実や未来に対して様々な含蓄や示唆に富み、普遍的であり続けていた。
    2020年東京オリンピックという偶然の一致にとらわれてすぎてしまうと、逆にその本質を見落とし、『AKIRA』の普遍性を弱めてしまいかねない。

    ではその普遍性とは何なのか。自分なりの考察を書いていきたい。
    実はつい先日NHKの「ニッポンのジレンマ」で東京オリンピックをテーマに新東京論という議題での討論が行われていた。そしてその直後に「80年代の逆襲」という番組が放送された。
    両者は東京という都市や日本の文化を語る上でとても深く相関していて、ものすごく感銘を受けた。
    そこにどうしても思考が引っ張られてしまうが、なんとか頑張って自分の言葉で書いておきたい。

    戦後から高度経済成長期にかけて、東京は著しく発展した。
    それも、無秩序で、無計画で、無自覚的で、自己増殖的に、ものすごいスピードで。
    無計画に雑居ビルが建ち並び、様々なものがごった返した。
    新宿、原宿、渋谷、秋葉原などは都市ごとに自然発生的に特色を得て発展していった。
    世界中の都市を見ても、これほど無秩序な発展を遂げた都市は東京くらいだろう。

    そしてその様は、ネオ東京のカオスっぷりの中にもはっきりと見て取れる。
    同時に『ブレードランナー』で描かれるアジア的なエッセンスを含む近未来のカオスっぷりなども想起される。
    あの時代の天才たちは、同じような視点と先見性を持って世界を捉えていたのかもしれない。

    そして80年代。テクノやお笑い、漫画、サブカル、オタク、そしてAKIRA。
    非身体性を獲得し、新しいものを追い求め、バブルに湧き、自己増殖のスピードを一層早めた時代。
    そして、バブルが弾け、夢から覚めたのち、中心がなく空虚でから騒ぎだったとまで言われた80年代。

    その中心のなさや空虚さまでも『AKIRA』のネオ東京やそこで生きる人々から、はっきりと読み取ることが出来る。

    そしてその無秩序さはこれまでたびたび否定的に捉えられてきたが、
    それでもなお、その中心のなさや空虚さ、自己増殖的な発展こそが、やはりおもしかったのだし魅力的でもあるのだ、という肯定もまた、すでに『AKIRA』は内包していたと言える。
    いまでこそ、NHKの番組内で「新東京論」だとか「80年代の逆襲」だとかって取り上げられて、明快な分析と肯定的な捉え方が示されているが、それをリアルタイムで作品の中でやってのけてしまっていたというのはものすごいことだと思う。
    つまり『AKIRA』はあの無自覚的な自己増殖の時代にあって、初めから限りなく自覚的であったのだ。
    『AKIRA』は当時の東京の独自性をかなり正確に反映し、現実と地続きにある近未来としてのネオ東京を、しかも大友克洋の壮大で天才的な世界観のもとに再構築してみせたのだ。

    ちなみに自覚的ということなら、80年代を語る上で欠かすことのできないYMOにも同じことが言えるだろう。
    彼らもまたあの無自覚的で混沌とした時代にあって、限りなく自覚的かつ冷静に社会と自己を見つめ、アイデンティティーを確立していたのだ。
    だからこそ普遍性を持ち、いままた、90年代以降に生まれた若者たちの間でも再評価され、世代を超えて愛されているのだ。あの時代のものでいまも残っているものは多かれ少なかれそういう部分を持っているのではないか。

    そして同時に、『AKIRA』はさらに俯瞰的で自覚的な視点も合わせ持っており、「人間社会の行き着く先」や「文明の罠」といったものへの警鐘と問題意識さえも持っている。
    バブルに湧いてものすごいスピードで自己増殖していたあの時代に、この視点を持っていたということはスゴいことだと思う。でも考えてみたらナウシカとかも80年代なんだよね。
    それはあまり珍しくなかったのかな?それともやはり先見性のある天才に共通の視点だったから?
    うーん。生まれる前だからちょっとそこまでわかんないな。
    ちなみに芸能山城組もまた、結成当初から「人類本来のライフスタイルを模索し検証しようとする実験集団であり、文明批判の一拠点」であるというコンセプトを持っている。
    だからこそ大友克洋と芸能山城組が互いに引き寄せられたというのは、必然であったのかもしれない。


    ともかくも、物語の核となる「アキラ」の存在こそがその文明への警鐘を象徴している。
    「アキラ」とは、
    全ての人間の中にあるようなエネルギー。
    生命体やあるいは宇宙が持っているようなエネルギー。
    自然発生的、無自覚的に発現するエネルギー。
    人の手に負えないほどの巨大なエネルギー。
    (うーん。こういうこと書いてるとどうしても原発とダブるなw しかもアキラは科学者達がその謎を解明できずに後世に託すために冷凍カプセルに入れて封印したって、これまんま放射性廃棄物じゃんw)

    そしてそのエネルギーが実際に無自覚的な人間の手に渡ってしまった結果の、暴走、破壊。
    人間はそれをさらなる破壊(衛生からのSOL)によって押さえ込もうとするが、
    それは、鉄雄のさらなる破壊によって阻まれ、破壊が破壊を呼ぶ絶望的な状況に陥り、
    最後には鉄雄にさえもコントロール不能になって、全てに破滅が訪れる。
    それは人間の業とも、無限の欲望の帰結とも取れるし、
    それはもはや宇宙の遺伝子に組み込まれた繰り返す必然であるというようにすらも感じとれる。(「アキラ」について説明するケイの言葉などから)
    しかし、『AKIRA』ではそれは「懸念」であり「警鐘」ではあるが、決して「絶望」ではない。
    むしろ未来への「希望」あるいは「願い」として描かれている。

    では、それをどのように描いているか。
    ここが『AKIRA』の真にものすごい部分である。

    それらの全てを『AKIRA』では、金田と鉄雄の、複雑で愛憎渦巻きながらも、とても深い友情を描くことによって表現しているのだ。
    壮絶な殺し合いを続けていた二人だが、最後に鉄雄は金田に助けを求め、金田は鉄雄を命がけで救おうとする。
    鉄雄には金田に対するコンプレックスの前に、金田に対する憧れや友情がはっきりとあるということは、あの回想シーンが雄弁に物語っている。
    金田と鉄雄のこの複雑な関係性を物語の中であそこまで巧みに描き出すだけでもすごいことだと思うが、そこにある友情や想いなどの、人間にとっての普遍性や人間の危うさ、といったものをフィルターとして通すことで、『AKIRA』はもっと俯瞰的で自覚的な上記のような主張を、我々人間に対してとても強く深く、より直接的に訴えかけてくるのだ。

    そしてラストシーンでは、制御不能になった「アキラ」の力によって再び繰り返されてしまった壮絶な破壊と破滅の中から、
    タカシ、マサル、キヨコとそしてアキラが、自覚的に「アキラ」の力を使うことで、自分たちが犠牲になりながらも金田たった一人を救い出してみせる。
    キヨコの「未来は一方向にだけ進んでいるわけじゃないわ。私たちにも選べる未来があるはずよ。」という言葉が、頭の中でリフレインする。

    「もう始まっているわ」というキヨコの言葉が、また繰り返す破滅を想起させるが、
    これを経験した、ケイと金田の成長や二人の関係、鉄雄の最後の想いなどが、一筋の「希望」を期待させる。


    この作品を、いまこの時代に、爆音で体験することで、
    そこになにを見いだし、なにを想い、なにを受け取るか。

    作品全体が放つ芸術としての圧倒的な幸福感とともに、
    まだ、自分たちにも選べる未来があるはずだと信じて、一筋の「希望」を受け取りたい。

    DSC_0472
    右のポスターには、「我々は今、AKIRAの世紀にいる・・・」と。


    (P.S.)芸能山城組の音楽や音のスゴさについてはコチラの記事の一番下でも書いてます→音が良いCD、音楽が良いCD

        

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    『子宮に沈める』を、記憶に浮かべる。

    新宿K'sシネマで緒方貴臣監督最新作『子宮に沈める』を観てきました。


    2010年の大阪二児放置死事件をモデルにして、育児放棄やシングルマザーについて描いた劇映画です。


    予告編


    公式HP
    http://sunkintothewomb.paranoidkitchen.com

    自分は緒方監督のデビュー作『終わらない青』もUPLINKで観ました。
    父親からの性的虐待を受け、リストカットなどの自傷行為を行う女子高校生をリアルに、そりゃあもうリアルに(笑)
    描いていて、衝撃を受けたのを覚えています。
    でも、『終わらない青』は確かに考えるきっかけにはなったものの、整音などの作りの荒さや、見た後に自分の中でどう処理していいかわからない程の鮮烈すぎる描き方で、正直あまり好きな作品ではありませんでした。
    でも、ずっと小骨が喉にひっかかったように「残る映画」だったので、作品はもちろんその特殊なプロフィールや製作方法なども含めて緒方監督には一目置いていました。

    その緒方監督が育児放棄問題にフォーカスを当てて『子宮に沈める』という映画を撮ったと知って、ドキッとしました。
    自分が0歳のとき、自分の両親が離婚した理由がほかでもない母の育児放棄だったからです。
    怖い気持ちもありましたが、そこまでナイーブちゃんでもないしw、そいつぁ見たいぜ!という好奇心が圧勝してしまったので、緒方監督とNPO法人Wink理事の新川てるえさんとのトークショーを狙って観に行きました。

    どうしても当事者(?)としての自分の話や視点が含まれてしまうので、まともなレビューにはならないかもしれませんが、以下感想や考えたことなどを書いていきます。


    ++++感想や考えたこと(ネタバレあり)++++

    ◎まず、映画としての描き方について◎

    『終わらない青』のときはすごく気になってしまった「音」は、今作ではきっちり整音されていた。
    前作『体温』は見ていないのだが、完全自腹の自主制作で映画製作を続けてきて、映画の質や技術レベルあるいはスタッフなどの人材の面においても、着実に進歩してきているのはすごいことだと思う。
    特に関心したのはカメラワークだ。
    緒方監督の特徴として、固定カメラによる長回しで、実際の現実の風景を覗き見ているかのように切り取ることが多いのだが、今作ではそのカメラにも多くの工夫がされていて、飽きずに見ることができた。
    特に感じたのはピントとボケだ。
    被写界深度が浅くピント位置がシビアなレンズを使って、わざと顔からピントを外していたり、置きピンをしたり前ボケを入れたりしていて、ボケ具合やピント位置などの遊び心がとても映画的で美しかった。
    部屋の天井に近い位置から、垂直に下に向けたカメラで部屋全体を上から映すカットもあり、どうやってカメラを固定したんだろうとか思いながら見てた。
    カメラが家の中から一切出ない密室劇なので、こういう見せ方の工夫は本当に重要な要素だったと思う。
    あとは、『終わらない青』でも多用してた暗転は今作でもカットの繋ぎ目で多用されていた。
    断片を切り取って並べる際にそのまま直接繋げないという技法は、時間を飛ばしたり想像力を喚起するという意味では有効だけど、その度にいちいち集中が切れかけるので嫌いな人はもしかしたら嫌いかも。
    でもこの映画の場合、あれがないと息がつまり過ぎて死ぬ気がするけどw
    ちなみに暗転の長さもひとつひとつ微妙に変えてあるらしい。
    実際の大阪の事件では子供が置き去りにされた期間はなんと50日間にも及ぶそうだ。
    子供達にとってあまりにも長いその時間の経過を、あの暗転によってひとつひとつ表現しているのだろう。
    スクリーンが暗転している間、観客は見たまんまの暗闇を想像させられる。

    もうひとつ特筆すべき点は、徹底したリアルな作り込み。
    実際の姉弟にこだわったというキャスティングや、子役の演技(というよりは素の反応)や母親の由希子役の伊澤さんの痛ましいほどリアルなシングルマザーっぷり。
    特に映画後半での幸(さち)の室内サバイバルシーンは圧巻。
    こういう子のことを「天才子役」と呼ぶのだ。
    土屋季乃ちゃんホントよく頑張った!
    演技だけではなくセットもリアルだ。ゴミが散乱しまくっていて、スクリーンから異臭が感じられる程の部屋の内部の作り込みや、映画の最後の方で出てくるハエやウジ虫(本物)などなど。

    それらの描き方から見えてくる監督の意図は、「ただ、見せる。」ということだと思う。
    全く動かないカメラはほとんど何の主張もせず、音楽のない日常の音は感情を誘導することもなく、ただそこにある現実として見るものに迫ってくる。
    そのときそこで起こっていたであろう光景を、警察も記者も実際の母親ですらも見ていない、あの部屋の中の光景を、映画としての想像力と描写力で、残酷なまでにはっきりと「ただ、見せる。」のだ。
    これはドキュメンタリーではできない。映画でしかできないことだ。
    監督の作品や発言からはジャーナリズムを感じる部分もあるが、あくまでもドキュメンタリーでも報道でもない、劇映画として作品を描いている。
    ただし、エンターテイメントでは決してない。
    ドキュメンタリーでは撮れない、エンターテイメントでは重みがない、その中間にあるものを劇映画として表現するためには、確固たるこだわりと徹底した作り込みが必要になるということだろう。
    そういうフィクションは時としてノンフィクションを凌駕するほどの重みを持つ瞬間があるのだ。
    そういう映画は好きだし、そういう映画を撮る監督はもちろん他にもたくさんいる。
    例えば同じネグレクトの問題を扱ったもので言えば是枝監督の『誰も知らない』は有名だ。
    ただ、緒方監督はその点においてどの映画監督よりもとがっている(笑)
    うかつに触れるとケガする程にとがっているw。だからこそ作品には相応の重みがある。
    「重み」というと「軽くなる」けど、『子宮に沈める』からはもっともっと実在的な「質量」を感じる。
    それが下っ腹に「ズシン」とくるのだ。
    見ろと強制は出来ないし、見て欲しいともなかなか薦めづらい映画だが、もし覚悟ができたのならばぜひとも見て頂きたい映画だ。
    特にこれから子育てに関わっていくであろう人たちや、現在進行形で子育てに関わっている人に。


    ◎感想や考えたことなど◎

    映画は前半部、育児と家事を一人でこなす「良き母」としての由希子を描き出す。
    あやとりにロールキャベツに超豪華なキャラ弁。
    この時点ではまだ離婚していないが、すでに母は孤独な状態に陥れられていた。

    脱線するけど、個人的にロールキャベツは見事だと思ったw 
    演出としてあそこでロールキャベツを巻かせるのは100点満点w
    ロールキャベツって、メジャーな料理だけど、作るとなるとめんどくさいし、気合い入った料理だからね。
    ロールキャベツが、由希子が「良き母」であろうと頑張る姿をすごく象徴してるように見えた。
    だってさ、あれってそもそもキャベツで巻く意味ある?なんでキャベツで巻くの?しかも縛る意味あるか?そこまでするか?ニクキャベツデマイテイッタイナニガシタイ?
    ……てかロールキャベツってなんなんだ!?(笑)考えてみたらだいぶ謎な料理だな!
    そうかわかったぞ!お母さん達を追いつめているのはロールキャベツだ!!間違いない!!
    ロールキャベツは魔の料理です。(結論)
    全国のお母さん、ロールキャベツは育児放棄に直結する危険性があるので、
    今夜は肉団子入りのコンソメスープで妥協しましょう。
    とか思ったりしてたw←

    はい、ここから何事もなかったかのようにもとのテンションに戻ります。
    離婚してシングルマザーとしての新生活がスタートしてからは、目に見えて母の余裕が無くなっていくのがわかる。特に精神的な余裕が。
    医療事務の資格の勉強をしながらパートや家事や育児に追われる毎日。
    そこに追い打ちをかけるのが、他でもない子供達だ。
    とにかく泣きじゃくって止まらない弟の蒼空(そら)。
    姉の幸も、不安なのか試しているのか、母を困らせる。
    あっちもこっちも、なにもかもが母の肩に重圧としてのしかかる。

    見るのがキツくなってきたのはこのあたりからだ。
    映画に深く入り込もうとすると、どうしても無意識のうちに自分の身や、自分の姉や母に置き換えてしまうからだ。
    当時、自分は0歳8ヶ月ほどで姉はまだ2歳になっていないころだろうか。母親は20代半ばだったのではないかと思う。
    この時点でもうびっくりだし、映画を見始めてすぐ「うわぁ〜、まんまやん(苦笑)」ってなった。
    年齢に多少の差はありそうだが、自分に当時の記憶は当然まったくない。
    するとなにが起きるかというと、おかしな話ではあるが、まるでその当時の状況をそのまま見せられているかのような気分になってくるのだ。映画の力というのはこれだから恐ろしいし、すごいのだ。
    自分はだいぶ小さく生まれてしまったらしく、かなり軟弱で、手のかかる子だったらしい。
    きっと母には多くの気苦労をかけてしまったのだと思う。
    父は仕事の関係で週末や連休にしか帰ってこれなかったのではないかというのも、父の仕事を考えれば容易に想像できる。

    ふとスクリーンに意識を戻せば、
    残酷なほどに泣きじゃくる蒼空。
    まだまだ手のかかる時期の幸。
    それを独りで背負い込みながらも、良き母であろうと気を張り続ける由希子。

    …ズッシーン!笑。

    もうひとつ見ていてキツかったのは、母が出ていってからの幸と蒼空。
    ゆりかご(?)のようなものに収まったまま泣きじゃくる蒼空を、小さな手と体でガッチャガッチャゆらしてあやす幸。
    ゆらすのを止めるたびにすぐに騒ぎだす蒼空。その度に何度もゆらしてやる幸。
    粉ミルクを床に散乱させながら蒼空のミルクを作ってやる幸。
    キッチンハイターを飲もうとする蒼空(笑)。らめぇ!といって取り上げる幸(笑)。
    幼児というのは残酷な程に無邪気で、それなのに圧倒的弱者という無敵っぷりだ(笑)。

    自分も姉には今までたくさん苦労させてきたなぁ。そしてそれはきっと物心つかないうちからそうだったんだろうな。
    スクリーンの中の蒼空と幸の姿を見て、そう思った。

    ただ、当然だけど全てが類似しているわけではない。
    ネグレクトには大きく2種類あって、積極的ネグレクトと消極的ネグレクトがあるそうだ(映画を見てから調べてみて知った。)
    積極的ネグレクトは育児ができない明確な理由がないのに育児放棄すること。消極的ネグレクトは経済力の不足や精神疾患などで育児ができなくなることだそう。まぁ、この線引きもそんなはっきり分けられるようなものではない気もするが。。。
    自分の母の場合はおそらく後者で、単に精神的に参ってしまったのだと思う。まぁこれも想像といえば想像にすぎないのだが。
    自分たちはおそらく割と早い段階で(少なくとも生きてるうちに)見つかってるし、
    2人とも父に引き取られて、父の実家で父方の祖父母に育ててもらっている。
    かなり幸運だったし、恵まれた環境で育ててもらえた。だからこんなに真っすぐでいい子に成長できた←(爆笑)

    しかし映画では、由希子は友人に勧められて夜の仕事を始める。
    そして、寂しさからかホスト通いをするようになる。
    カメラは家の中しか映さないので由希子が外に出ている部分は想像に委ねられるが、家から出るときにケバい格好をしていたり家に若い男を連れ込んだりしてるのがわかる。
    そして、なんと最後に家を出ていくときにガムテープで窓やドアを封鎖してしまっていたらしい。
    出ていく前に作って置いていったバカ盛りの大量のチャーハンだけが、力なく言い訳をしているように見える。
    ロールキャベツとの対比が見事である。笑
    状況から見て精神的に正常ではなかったともとれるが、これはどちらかといえば積極的ネグレクトと受け取られてしまうのではないか。

    ちなみに、実際の大阪二児遺棄事件では母親が風俗で働いていたこととホスト通いをしていたことが大きく報じられ、それが決定打となって母親が叩かれまくっていたそうだ。
    それらの直接の描写は映画の中には出てこないのだが、映画の中のこの母親を100%擁護できるかというとそれはだいぶ難しいように自分の目には映る。

    では、やはり母親が全て悪いのか。
    それは違うと思う。もしそうだとしたらこの映画に意義はない。
    監督はインタビューの中でタイトルについても語っている。
    『子宮に沈める』とは、かなり挑発的で醜悪なタイトル(笑)だが、どうもそのまんまの意味ではないそうだ。
    監督は事件当時のころから、社会がなんでもかんでも「母性」という言葉で片付けて「母性」というものを神話化してしまっているのではないかと感じていたそうだ。
    「育児は母親がするものだ。」「母親には「母性」があるのだから。」
    育児がうまくいかなければ「愛情が足りないからだ。」「母性が足りなかったからだ。」といわれる。
    そういう固定観念や刷り込みが蔓延する日本社会の母親に対するプレッシャーが、「母性」の象徴としての「子宮」に母も子も育児も全てを沈め込んでいるのだ。という感じの意味が含まれているそう。
    ☆参考までに→ シノドスの記事:母親を子宮に沈める社会 ――大阪二児遺棄事件をもう一度考えるために 映画『子宮に沈める』 緒方貴臣×角間惇一郎
    (それにしてもシノドスで記事になるとは。チキさんもシングルマザーの売春についてルポ書いたりしてたからかな。)
    ちなみに、映画を見ずに題名しか見てない人が単純にそのままの意味として受け取って批判しているケースが多いみたいだけど、そういう人に共通しているのが、大阪二児遺棄事件に対して100%母親のみを糾弾してそこで思考を停止させているところ。それではまさに監督が言うところの「子宮に沈める」ではないか。それこそあの事件まるごと。
    そこに一石を投じる為のこの『子宮に沈める』なのに、それすらも再び、見ようとすらしないまま「子宮に沈める」というのか。
    それは、とても視野が狭くて、すごくもったいないことだと思う。


    [上映後トークショー 左が緒方監督で右がNPO法人Wink理事の新川てるえさん]

    新川さんはシングルマザーの支援などをするNPOの理事だからか、母親側に寄り添った意見を言っていた。
    新川さんが悪いと思うのは、全てを放棄して出ていった父親だと言っていた。
    確かに母親の育児放棄以前にこの父親は父であることも夫であることも育児も全て放棄している。
    映画のコピーにもあるように「孤独が母を追いつめる」ということか。
    母子家庭に対する社会保障などの不整備やその周知の問題や、別れた元夫から養育費がちゃんと払われる割合は2割程度しかないという話もしてくれた。そりゃひどい。。。
    日本は先進国の中では、女性の社会進出の割合や、シングルマザーの貧困率や、社会保障の整備などが著しく遅れているということはもはや周知の通りだ。
    確かに父親の責任は間違いなくあると思うし、社会全体としての問題という面もあるように思う。
    でも、新川さんの社会的な立場がそうさせるのか、今度は母親側に寄り過ぎているような気がして、自分は少し違和感を感じながら聞いていた。

    では、母親も元夫や社会から放棄された被害者のひとりなのだろうか。
    では、孤独にさせた父親が悪いのだろうか。あるいは社会が悪いのだろうか。

    ...そんな単純な話ではないと自分は思う。

    そこのところについては監督と映画そのものが語ってくれた。
    監督が言うには、この映画は見る人の立場や価値観によって、誰を悪者にするかも違うし見え方も変わってくる。
    だからこの映画は、できるだけ中立に、どの登場人物にも感情移入しづらいように、ただ覗き見ている感覚になるように気をつけて作ったそうだ。
    この映画を見て、それぞれが自分なりに考えて欲しい。ということだそう。

    ただし、この映画は冷静で中立な観察者である以前に、その成り立ちからして、ひとつだけ強烈な主張を内包している。
    それは「子宮に沈めるな!」という主張であり、つまり「思考を止めるな!」という主張でもある。
    この日本社会に対して、あの事件について育児放棄という問題について、改めて考える機会を与えてくれているのだ。
    だから監督はインタビューで「とくに見て欲しい人は?」という問いに「事件当時に叩いていた人たち」と答えているのだろう。
    これらの点において、この映画はものすごく正しいと思う。
    監督自身、この事件について相当に考え抜いたのだろう。

    この事件や育児放棄について考えれば考えるほど見えてくるのは、
    一般化できるような明確な正解の無さであり、問題・社会・家族・親・子・育児・人間などの途方もない複雑性だ。
    この事件のケースだけでも、シングルマザー、男女格差、貧困(ワーキングプア)、雇用制度、社会保障、支援制度、行政、風俗業、性教育、精神疾患、地域コミュニティ、etc…。 
    事件の要因として、様々な問題や社会状況が挙げられるし、それら同士もまた相互に複雑に関係し合っている。
    背景にあるさまざまな要因が複雑に絡み合い、少しずつ歪みを生み出していき、その最悪の結果として育児放棄に繋がるのだ。
    それを、誰が悪い、なにが悪い、と責めあってみてもあまり意味がない。
    そんなことで済んでしまう話なら、もう育児放棄なんて起きないだろう。
    さらに言えば、そうやってなんでもかんでも単純化・一般化したがり、多様性にことごとく不寛容な現代の社会の風潮もこの問題の大きな要因のひとつであると自分は思う。
    残念ながら、これからも似たような事件は起きるだろうし、育児放棄はなくならないと思う。
    その背後にある途方もない複雑性を、まずは一人一人が認識するところから始めるしかないのだ。
    その複雑性から目を背け、全てを母親の「母性」に押し付けて「子宮に沈める」という行為は思慮に欠けると言わざるをえない。
    母親(個人)の問題と結論づけて思考を止めれば、社会はひとつも改善を見ないままにまた同じことを繰り返し、そしてまた同じ反応を繰り返し続けるだろう。
    これは個人レベルではなく、社会レベルで考えるべき問題なのだ。
    人間と社会の複雑性を頭に入れた上で、一人一人がまた改めて考え抜いていくしかない。
    その結果、それこそ多種多様で複雑な回答が人の数だけ導き出されていくだろう。
    それは言ってみれば社会が思考するということであり、そうやって社会は僅かずつ改善しながら前に進んでいくのだ。
    それは例えばWinkの新川さんやGrowAsPeopleの角間さんのようにNPOとして女性の支援をすることかもしれないし、あるいは緒方監督のように映画を撮ることかもしれない。
    あるいは自分が父親になったとき育児に積極的に参加しようとする心構えなのかもしれない。
    あるいは自分が母親になったときに、自分にも起こりうることとして気をつけてみることかもしれない。
    もし育児がつらくなってもひとりで抱え込まずにSOSが出せるように普段から備えておくことかもしれない。
    もしかしたら、自分の周りで大変そうなシングルマザーを見かけたとき、たった一言、優しい言葉をかけてやるだけのことなのかもしれない。
    ひょっとしたら、今夜はロールキャベツはやめて肉団子入りのコンソメスープで妥協する勇気なのかもしれない←
    もしくは、チャーハンは一度に大量に作りすぎないように気をつけることなのかもしれない←
    そうやってすこーしずつ、母親をサポートできる社会に、子育てのしやすい社会に、社会全体で子育てをするような社会に、一歩ずつ進んでいければいいと思う。

    ・複雑性を理解すること。
    ・過去から学ぶこと。
    ・社会を前に進めること。
    ・ひいては、まずは一人一人が考えること。

    この映画はその出発点となりうる。
    だから、この映画はとても正しいと思う。とても慎重で、優しくて、真摯な映画だと思う。
    自分はこの映画を支持するし、多くの大人に見て欲しいと思う。
    新宿のK'sシネマでは12/6までの公開で、どうやらDVD化はしない予定らしい。
    劇場に足を運んで見て欲しいという意図はよくわかるけど、育児放棄を描いた映画として残して伝えていく(社会に思考させ続ける)という意味では、むしろDVD化すべきなのではないかなとも思うのだけど。


    なんにせよ、この映画は自分にとって大切な映画のひとつになった。
    自分の生い立ちにも関わるし、そこに正面から向き合わせてくれた。
    育児放棄についてこんなに長い時間、こんなに深く考えたことはなかった。
    言ってしまえば作り物の映画だから、自分の幼少期の記憶を補完するなんてことはないのだけど、
    なんとか生かされて、もうすぐ23歳になろうとするいま現時点での自分の記憶の中に、大切な映画のひとつとして、育児放棄について考える材料として、

    『子宮に沈める』を、記憶に浮かべる。


    +++++++++++++++



    ロビーで監督と主演の伊澤さんにサインもらってしまった!
    少しだけだけど、話もできた。
    監督は、映画のエグさとは違って優しそうな人。
    子役達にあんなことをさせた人物とは思えないw

    伊澤さんは自分の話を聞いて「え!? エグられなかったですか?それだけ心配です。」と心配してくれたw
    そんなに深くエグられてないので大丈夫ですよ!笑←
    伊澤さんはラストシーンが特にすごかった。
    お腹の子供を文字通り子宮に沈めようとするシーンと、シャワーを浴びながら瞳孔開いてギョロギョロするあの目が。

    ※追記
    あのラストの一連のシーンについての解釈を書き忘れていたけど、大阪での公開も始まったことだし、自分なりの解釈を書いておきたい。もうすでにうろ覚えだけどw。
    まずあの手編みの赤いマフラーは、冒頭でのシーンからも読み取れるように子供への偽りなき深い愛情を表している。
    そして同時にあの赤い糸が血の繋がりを表現しているのだと思う。
    鮮やかな緑のシートで子供の亡骸を丁寧にくるむシーンも、ロールキャベツを丁寧に巻いていたシーンとクロスオーバーする。
    そして最後にお腹の子供を子宮に沈める描写では、死んでしまった2人の子供に赤いマフラーを巻き、そのマフラーから編みかけの赤い糸が繋がったままの編み棒を使って自分の性器,子宮を傷つけている。
    そこから読み取れるのは「いまも、3人とも偽りなく愛している。」ということ。と同時に「自分には母になる資格がない。」という想い。
    このお腹の子もこの2人のように不幸にしてしまう。自分に母親になる資格はない。だからこの子は産んではならない。という想い。子供達に対して言葉にならないほどに申し訳ないと思う気持ちと、自分に対して言葉にならないほどに嫌悪する気持ち。
    それでも、お腹の子供も死んでしまった2人の子供も、(いまも)心の底から愛しているのだという偽りのない気持ち。
    そして何をもってしても否定できっこない血のつながり。
    それらが全てないまぜになって、精神が崩壊しかけるほどの状態になっての、あの激しい慟哭と嗚咽なのだ。
    そしてシャワーを浴びながら瞳孔開いてギョロギョロするあの目こそが、彼女の精神状態の不確かさを表している。
    あのシーンは、この母親を単なる子殺しの殺戮者ではないのではないか、という視点をもって注意深く観る人にだけ何かが伝わり、ほんの僅かに考えるヒントとなるシーンだ。監督が中立に気をつけて(むしろ母親の立場に寄り添わないように気をつけて)描いたこの映画の中で、監督ができる精一杯の母親に対する理解の描写なのではないかなと自分は思った。
    たぶん、もっと簡単に、母親が育児放棄に至るまでの過程やそこにあった問題を丁寧に描いてやることはできたはず。
    でもそれでは意味がないし、それが正解だとも思えない。やはり観た人に自分の頭で考えて欲しい。ということなのだろう。
    この映画で、育児放棄に至るまでの流れを丁寧に描こうとすると、母親の心理を間接的に描写したり、カメラを部屋の外に持ち出さなければならなくなる。
    しかしそれでは、観客はただ受け身になるだけで、深く考えたり想像力を働かせられなくなってしまうし、この映画の本質すらも変わってしまう。
    この映画は説明的描写が皆無だが、だからこそ観客があれこれ考えて想像力を働かせるしかないようになっている。
    そしてその想像力こそが、いまも起こりうるこの現実に対して我々に最も必要なものなのだ。
    この映画を見て、この部屋の外の世界やこの母親について想像力を働かせられないのであれば、現実でも想像力を働かせることなんてできない。
    だから監督は、誤解されたり批判されたり物議を醸すということをわかっていながら、あえてそのリスクを負い、観客を愚直に信じ、この映画の受け取り方やこの映画の意義にいたるまでを、観客ひとりひとりの想像力と思考に完全に委ねたのだ。その姿勢と覚悟に敬意を表したい。

    それに、もしそういう育児放棄に至るまでの過程やその後ろにあるもっと大きな背景などを知りたければ、あの事件の背景や実際の母親やその家族に至るまでを徹底的に取材したルポがあるし、それを読めばいいということを監督自身も言っている。

    そして、最後に母親が窓から青空を見上げるラストシーンは「どんなに孤立しても同じ空でつながっている」という母子たちへの監督からのメッセージでもあると、監督自身が語っている。
    やはりこの映画は、厳しく辛い映画でありながらも、とても真摯で優しい映画なのだと自分は思う。
    映画が、というよりも、映画を通して監督やスタッフや役者さんたちの想いが伝わってきて、それがすごく真摯で優しいのだ。

    あと、これは映画全体に対して言えることだけど、緒方監督は作家性が素晴らしいと改めて思った。
    赤や緑の色彩の使い方、徹底的につくり込まれた構図や小物の配置、そして子供目線(ローポジション)からの固定カメラなど、あの小津安二郎監督に近いものを感じた。
    小津安二郎監督があそこまで自由に作家性を追求できたのは当時の撮影所システムが機能していて、同じスタッフや同じ俳優を常に登用して自由度の高い状態で作品作りを続けられたからだが、
    緒方監督はそれに近いことをインディペンデントの自己資本映画としてやってのけている。いまの時代を考えるとこれはすごいことだ。リスクもかなり高い。自分だけならいいが、仲間まで食えなくなりかねない。
    そして一貫して現代社会の問題などを題材にして作品を撮っている。小津監督も一貫して「昭和の家族」を撮り続けたが、緒方監督は方法論もテーマも現代に即した形にアップデートしているのだ。
    もっと評価されてしかるべきだと思う。今後がますます楽しみな監督である。



    伊澤さんに撮影について聞くと、やはり大変だったそうだ。辛かったと。
    そりゃそうだよなw あんな役やったら役が残って頭おかしくなるんじゃないか?
    でも、監督の残酷なまでにリアルな見せ方も含めて、そういう真摯な作り込みのおかげで、観客も違和感なく映画に深く入り込めるし、深く考えることができるのだ。
    あと、伊澤さんて柴崎コウに似てる(?) 凛としててすごくキレイな人だった。


    記念撮影してたので横からパシャり。


    あ、ちなみにこの映画の半券があるとK'sシネマ毎年恒例の『ヘヴンズストーリー』(12/14~12/20)が割引料金で見れる。
    全9章、4時間38分の、殺人・復讐・再生の物語。
    この映画もまた、ものすごい「質量」を持つ、日本映画史に残る素晴らしい映画。
    自分は今回で5回目になるw 『子宮に沈める』に向き合った自分へのご褒美として見に行く予定w。
    この記事をここまで読んでる人は『子宮に沈める』観に行った人が多いと思うので、その半券を持ってぜひ。



    ++++じぶんのこと++++

    最後に少し自分のことを書いてみる。
    自分の母の育児放棄について。

    考え方にいろんな変遷はあった。
    母のことを悪く思ったり、ひどい母親だと思った時期もあった。
    自分の子の育児を放棄するって、一体どういうことなの?意味わからんわ。って思うこともあった。
    じゃなんで産んだんだよ…って。
    腰が曲がったおばあちゃんが大変そうに家事をしているのを見たり、おばあちゃんが倒れたあとに姉が必死で代わりに家事をやろうとしているのを見て、母親さえいればこうはならなかったのにと思うこともあった。
    でも、血が繋がっているということは紛れもない事実で、育児放棄しようが離婚しようが親権が父親に移ろうが、母の血がいまも自分の中には流れているのだ。
    その母を否定することは、自分の存在をも否定することになる。
    自分の中のこういうところは、もしかしたら母からもらったものなのかもしれないと思うこともあった。でも確かめようがない。自分のルーツがわからない。自分がわからない。そう悩んだこともあった。

    そして、多くの思春期の息子達と同じで、父が大嫌いになる時期もあった。
    そのころは、実は父が悪かったんじゃないかと思ったりもした。
    父が仕事ばかりで家事や育児を全て母親に任せ切っていたんじゃないかとか。
    なのに自分だけ被害者面してんじゃねぇよとまで思ったこともあったw。

    あと、いまとなっては笑い話だが、自分がいけなかったんじゃないかと思うこともあった。
    自分は体が貧弱で、ものすごく手のかかる子だったということを祖父から聞かされていたから。
    いらん子だったんじゃないかとかw
    肉体的にも精神的にも母に大きな負担をかけて追いつめる自分が存在しなければ、父と母と姉の3人だったら家族円満にうまくいってたんじゃないかとか。
    でもこれは当時、自分の中では確信に近かったと思う。
    母親も父親も姉も、誰も否定せずに尊重しなければならないとなったとき、その矛先が自分に向くのは当然のことだ。

    あとは、ロールキャベツを憎悪した時期もあった…かもしれないw。


    いまでは、母は若くして家事と育児を一手に引き受けて大変だったんだろうな。精神的に追いつめられていったんだろうな。無理させちゃったんだな。と思う。(そう思うための小さな手がかりやすごく希薄な根拠のようなものは一応ある。という程度での想像にすぎないが。)

    一方で、父は父で家族を養うということをすごく考えて仕事をしていたんだろうなと思う。
    子供達の将来のことまで考えて、特殊で大変な仕事を勤めあげていたんだろうな、と素直に尊敬できる。

    あと、自分がいらん子だったわけないっしょ!それはないわw!こんないい子なのにw!?ギャハハ!
    と思うこともできる。(…..生まれてきてごめんなさい笑)


    それはやっぱり、誰かが悪いわけではなくて、みんながそれぞれ不安要素を抱えていて、いろんな要素が複雑に絡み合って、その結果として起きてしまったことだと思うから。
    だから自分は誰を責めることもない。たまにはロールキャベツも食べたい。


    ただし、そういうことが起きてしまいやすい社会であり、
    そういうことが起きてしまったとき、真っ先に母親を責めやすい社会だなとは思う。

    子育てがしやすいとは到底言えないし、家事や子育ては母親任せになりやすい社会。
    他人と違うことが許されないし、失敗に対しても不寛容な社会。
    フォローもしてくれないし無関心なくせに、プレッシャーだけはものすごいかけてくる社会。
    そういう、誰に対しても優しくない社会だなということはすごく思う。

    それはやっぱり少しずつでも改善していかなければならない。
    子供と一緒に、母親も父親も、そして社会も、少しずつ成長していかなければならない。
    そのひとつひとつの小さな成長が、相互に複雑に絡み合って、その結果として、
    育児放棄の一歩手前で踏みとどまれるように。
    ただただ、そう願うのみである。


    あと、自分にとっては、顔も声もわからないし記憶の中にすら存在しない母に対して、
    自分が確信を持って言えることがひとつだけある。

    上に書いたように、こんなクソみたいな生きづらい社会だし、
    そのくせやたらと複雑で、そんな社会で生きることは死ぬほどめんどくさいことだけど、

    それでも、いまではその複雑さやめんどくささも含めて、
    やっぱり人生はおもしろいと思えるようになったし、というかまずおれがおもしろいしw←

    だから、、、ひとつだけ、、、


    産んでくれて、ありがとう。


    おわり。

    ※もういっこ追記
    この記事を書いてから少したった2013年の12月8日で23歳になりました。
    そのときに気付いたんですが、

    自分の誕生日が、好きです。

    ...まぁ誰だって好きでしょうけどねw

    その日付も数字も、一日中そわそわした感じも、ふわふわ感やわくわく感も。
    そして、いろんなことを考える日なんです。
    この一年間はどうだったろうか、自分は少しでも成長したのだろうか、23歳の一年間はこうでありたい、とか。

    もちろん母親のことについても自然と考えたりします。
    いま、どこでどうしているだろうか。
    母にとっての12月8日はつらい日になってしまっていないだろうか。
    いま、笑えているだろうか。とか。

    そして、戦争についてなども考えたりします。
    12月8日は真珠湾攻撃の日なので。
    おじいちゃんには戦争の話をこれでもかってくらい聞かされましたw。

    12月8日はジョン・レノンの命日でもありますね。ファンに銃殺されたんですよね。
    だからジョン・レノンのこととか、ロックの歴史とか、音楽に一体なにができるのかみたいなことを考えたりもします。
    でも「音楽は平和をもたらすか」みたいな、くさくて小さくてつまらない話はそんなに好きじゃないです。
    そんなクソみたいな問答よりも、音楽は人類にとって絶対的に偉大で不可分なものですからね。
    ちなみに、その犯人は今年仮釈放されるそうで、ちょこっと騒がれたりもしてるみたいです。
    誰か忘れたけど、有名な熟練ロックバンドのおっさんが「出てきたらおれが殺す」みたいなこと言ったらしいですwww

    あと、12月8日はさま〜ずの大竹の誕生日でもあります。
    だから面白いことも考えます。あの大竹のようなシュールで落ちついた面白さが欲しくてたまらないですw

    まぁ、そんな誕生日が、自分は好きです。
    自分にとっての誕生日が嫌な日じゃないということが、幸せなことだなと思うし、
    ただ単純に嬉しいだけの日というわけでもないことが、すごくありがたいことだなと思います。

    まぁ誰からも何ももらえない日なんですけどねーw!!←

    テーマ : 映画館で観た映画    ジャンル : 映画

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    『マン・オブ・スティール』IMAX 3D版 @成田HUMAX

    DSC_0181
    『マン・オブ・スティール』のIMAX3D版を成田HUMAXで観てきました!
    どこで観ようか迷ったんですが、ザック・スナイダーが監督でノーランが製作なら、ビジュアル的におもしろいものになってそうだし、IMAX3D版があるならやっぱりそれが一番かなぁということでIMAX3D版を観てきました。
    成田は何度も行ってるしこのブログでも紹介してるので、他のとこで観ようかとも思ったんですが、
    木場はだいぶスクリーン小さいし、としまえんは遠いしスクリーンもやっぱり成田より小さいみたいだし、しかも自分にとっては成田が一番近いんですよねw。
    ということでまた成田のレポートですw。
    でも今回は目玉のおやじカメラ(一眼レフのこと)を持って行ったので、写真をふんだんに使ってより詳細にレポートしたいと思います!
    あといちいち「IMAXデジタル」と書くのはめんどうなので普通にIMAXと書いていきます。
    日本でIMAXフィルムはもう観れないですもんね。
    DSC_0178
    どーん!!
    IMAX!!  ®!!(小声)
    DSC_0149
    IMAX!! あいまーっくす!! みぎやじるし!!
    ®!◯アール!!まるあぁぁぁーるっ!!(小声)


    DSC_0152
    IMAX!!みぎからのうえやじるし!! あお!! 
    まぁるあぁぁぁぁるっ!!(小声)
    ここが1~8の通常のスクリーンの入り口です。
    IMAXの入り口は別で、奥にあります。というか別の建物なんですね。
    日本のIMAXは通常のスクリーンを後からIMAXデジタル規格に改造したりしていてスクリーンが小さかったり座席の傾斜が適切ではなかったりしますが、ここ成田HUMAXは設計段階からIMAXデジタル規格で作られているので、本館とは別の建物を丸ごひとつ使っていて、スクリーンも大きく座席の傾斜もいい感じなのです。
    DSC_0155
    IMAX!!IMAX!!IMAX!! 
    まぁるあぁぁぁぁぁぁぁるぅぅぅぅぅ!!!!
    ここがIMAXスクリーンの入り口になります。
    プレミアム感があっていいですね。
    DSC_0170
    IMAX!!いや、もはや愛マックス!!!!
    まるあ〜るも当然あ〜る!!(小声)

    このスクリーン入り口の横のロゴが一番気合い入ってますねw
    いちいち商標®が入ってるのがさっきから気になってしょうがないですがwww
    カナダのIMAX本社はこうやって儲けてるわけかw

    中には広々としたきれいなロビーがあります。
    DSC_0173
    プレミアム空間です。あんまり人が座ってるとこ見たこと無いけどw
    DSC_0172
    ロビーには大型テレビが設置されてて、これから公開されるIMAX作品などの予告が流されてます。
    DSC_0157
    『マン・オブ・スティール』一色だ!!
    DSC_0158
    ではいよいよ中に入って行きたいと思います。
    アイマーックス!!とうっ!!みぎうえにマルあーる!!(小声)
    DSC_0160
    左から入ると思ったか!!バカめ!!上の写真はフェイントだ!!
    おれはスクリーンには右から入る派だ!!
    そんなことより見て下さい!少しずつ見えてきたこの巨大スクリーンを!
    初めて来たときは「デカっ!」ってなって吹き出しそうになりましたw
    それでは見て頂きましょうその全容を!
    DSC_0161
    どーん!!これがIMAXだ!!いやIMAXデジタルだ(笑)!!
    これは自分が座ったJ-22の座席(プレミアムスカイシートのすぐ後ろの列)に座って撮った写真です。レンズの一番広角側18mmで撮ってるので、実際の視野もだいたいこんな感じですかね。
    DSC_0163
    J列はプレミアムスカイシートの後ろの鉄の柵が、少し視界を邪魔します。もちろんスクリーンとは被りませんが、普通の座席の背もたれよりは高い位置にあるので気になる人には気になりますね。
    まぁプレミアムスカイシートに座ったときでも前の柵は少し気になりましたけどね。
    DSC_0164
    ちなみにプレミアムスカイシートはこんな感じです。広々としてますし、リクライニングもできます。
    前後の柵はいらない気がしますが。目線の高さ的にはやはりここが見やすいですね。
    ただし通常の席より300円程高いです。
    あとは視野を全部スクリーンで埋めたい願望がある人なら、プレミアムスカイシートの一列前の列がオススメです。真ん中の通路を挟んだ前のブロックです。ただし、それ以上前に行くと映画を見ながら字幕を追うのがかなりしんどくなると思われるので個人的にはあまりお勧めしません。
    かぶりつき派の人は前に行きたがりますが、2列目とか3列目とかは「死にたいのかな?」って思われるレベルなのでオススメしませんw
    逆に後ろの方に登っていくと今度はかなり見下ろす感じになりますし、スクリーンとの距離を感じるようになるので、あまり後ろすぎるのも個人的にはオススメしません。なんのためにIMAXに来たの?って話にもなるのでw。
    まぁあとは好みの問題ですね。
    DSC_0169
    これが一番後ろの通路から撮った写真です。焦点距離18mmです。
    やっぱでかいですね。スクリーンサイズに関してはそこまで詳しくないですが、高さが10mを超えるスクリーンっていうのは日本では希少なのではないでしょうか。
    DSC_0165
    これが巨大リアスピ—カーです。後ろの壁の左右に設置されてます。
    音響に関しては何度かこのブログでも書いてますが、爆音だし低音ブルブルいって迫力あるし、普通の映画館よりは格段にいいです。ただ、立川シネマツーの「KICリアルサウンド」や幕張シネプレックスのHDCS館と比べちゃうとだいぶ雑な音ですかね。

    ++++映画のレビュー(ネタバレあり)++++
    DSC_0159
    『マン・オブ・スティール』の感想については、もう疲れたしw、娯楽映画ですし、そんなに書くことはないです。
    ただやっぱり映像はスゴかったですね。さすが『300』のザック・スナイダーです。
    ハイスピードアクションが売りだということで期待してたんですが、バトルシーンなどは映画史上最速の映像表現だったんじゃないかなと思います。
    ただ、いくつかのシーンで「これは何年かしたら”うわ〜古いな〜”とか思われるんじゃないか」っていうシーンはありましたね。ハイスピードを表現するにあたって、上手いことカメラを動かしたりフォーカスシフトを使ったりしてスピード感をかっこよく演出していてさすがだったんですが、「ここ速いの背景だけやんw」ってシーンもいくつかありましたね。
    とはいえ、現時点では世界最高最速の素晴らしいCG映像です。日本では作れませんね。

    『マン・オブ・スティール』を一言で表すならまさに「ドラゴンボール実写版」ですw
    拾われて、地球育ちで、実は宇宙人で、超人的な強さを持っていて、地球を守るヒーローで、オッス!オラ、ケント!
    特に終盤のハイスピードバトルシーンはドラゴンボールみたいでわくわくしましたね。
    殴られて吹っ飛んでビル突き抜けてw
    衝突の衝撃派が円形に広がって地面をえぐってたのは、セル編の悟飯とセルのかめはめ波の衝突を思い出しました。
    もう攻防が早過ぎて目で追えないんですよw そしてIMAX3Dも追えてないんですよwww
    スピードが早過ぎて映像がついていけてない感じがしました。IMAX3Dは左目用と右目用の映像をそれぞれ映してそれをフィルターを通して立体視する仕組みなので、だいぶ映像があやふやでわけがわからんシーンがいくつもありましたね。
    まぁ、ハイスピードで空中戦を繰り広げる悟空とセルを観戦してたクリリンはこんな気持ちだったのかなぁというのが味わえましたw

    ノーラン製作ということで人物描写もあり、ストーリー性もありました。
    ハンス・ジマーも安定の重低音ですw。エンドロールの曲も良かったですね。
    まぁツッコミどころはいくらでもありますがw そこも含めて楽しめました。

    「これは"S"じゃない。クリプトンでは”希望”を意味する印なんだ。」←これはさすがに無理があるwww 笑ったw
    ちなみに映画見ながら松本人志の話を思い出しましたw
    スーパーマンについての視聴者からの質問に、
    「あれ真逆ですね。ドMですね。バレへんように、逆にSって書いてるだけですね。」って言ってたんですw
    何度もぶっ飛ばされながらも立ち上がる姿を見てたら、あながち間違いじゃないなとw
    とか思ってたらこんな動画もあったw 松っちゃん逆のこと言ってるw どっちだよ!

    おそらく2:16からのアクシデントはスーパーマンの仕業ですね。
    それにしてもダウンタウンおもろいな〜。

    あとビル壊し過ぎw 悟空だってその辺のことはちゃんと考えてたのにw
    あれだけ破壊しまくって人も巻き添えにしまくったあとで人間ひとり人質に取られても説得力がwww
    これはきっと、
    鳥山さんは「ビル書くのがめんどくさかったから」だけど、
    ザックは「ビル破壊シーンがたくさんある方が迫力あるしスピード表現もしやすい」ということなのかなとw

    ...なんだこれw 自分で読んでて思うけど、もうレビューでもなんでもねぇなw
    ということで『マン・オブ・スティール』は楽しんで見ましょう!以上!
    DSC_0174
    ちなみにこんなキャンペーンをやってました。
    毎日一人にグッズが当たるということで、何時の回のどこの座席に座るかで一日に一人だけ当たりが出るそうです。
    ふ〜ん。独自でこういうキャンペーンをやってくれるのは楽しくていいですね。

    DSC_0244
    当たっちゃいました(爆笑)
    ピンバッチです。ドSなのかドMなのかどっちを意味するのかはわからないままですが。
    いや、違うか、「希望」の印です!(キリッ)

    あと見終わるまで『マン・オブ・スティール』のスティールのことを「steal」だと思ってましたwww
    「盗む男」なの?バットマンの映画に『ダークナイト』とか洒落たネーミングをしたノーランが製作だから、なんか深い意味があるのかな〜?あとで調べてみよ〜とか思ってたら、
    「steel」でした。「鋼の男」です。そのまんまです。恥ずかしw。

    いやいや、だってさ「steel」ならカタカナで「スチール」のはずじゃんか!!
    『マン・オブ・スチール』じゃんか!!違うの!?

    だってさだってさ、プラスチックはカタカナで「プラッチック」じゃんか!!
    『マン・オブ・プラッチック』じゃんか!!違うの!? 違うね!!

    もうええわ!! ありがとうございました〜。

    テーマ : 映画館で観た映画    ジャンル : 映画

    Category: 映画 > ドキュメンタリー、ミニシアター   Tags: 映画レビュー  写真  

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    『標的の村』@ポレポレ東中野

    DSC_0072
    先日、ポレポレ東中野で『標的の村』を見てきました。
    ドキュメンタリー映画観まくってるのになんとこの日が初ポレポレ。
    有名なミニシアターなので知ってはいたんですが、なかなか行く機会が無かったですね。
    かける映画のラインナップを見ても、ここはミニシアターの中でもややマニアックなのかな~という印象です。
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    階段を下りて行くと、映画関連の様々な掲示物が。
    DSC_0018
    記事の切り抜きや、補足情報など、びっしりです。
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    UPLINK、イメージフォーラムなども記事の切り抜きを貼っていますね。
    しかしここはユーロスペース並の多さですw。

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    スクリーンは地下にひとつ。
    思ってたよりでかいスクリーンでびっくりしました。縦長の珍しい形のスクリーンです。

    予告編


    ++++感想(ネタバレを含む)++++

    こんなに心が強く揺さぶられるドキュメンタリーは久しぶりに観た。
    素晴らしいジャーナリズムだ。
    見始めてまず感じることは、この映画がかなり沖縄の人や高江の人の側に立っているということだ。
    中立性など糞食らえと言わんばかりに、高江の人々に徹底的に寄り添い、代弁し、補完し、弁護している。

    自分は幸いな事に、森達也さん(この作品にもコメントを寄せていて「公正中立などありえない。なぜなら情報は視点なのだ。主観的で当たり前。」と語っている)や、「カメラに中立性なんて無い。そんなことを言っているから良いドキュメントが撮れないんだ。」と語っていた福島菊次郎さんなどの、本物のジャーナリズム精神を持つ個人やその言葉たちにこれまで数多く触れてこれた。
    だからこの映画が高江の人の視点に寄っていることには全く疑問を感じなかった。
    しかし、その前提があるにも関わらずなお、自分に「それにしても徹底的に寄り添ってるな」と感じさせる程の寄り方であった。
    しかし真に驚くべきは、それをやっているのが琉球朝日放送というローカルTV局だという点だ。
    マスメディアがこれをやっているのだ。
    これはものすごいことだと思う。

    自分がなぜわざわざ森達也さんや福島菊次郎さんの言葉をこれ見よがしに引用したのか。
    それは、一般的には報道は公正中立であるべきだと考えられているからだ。
    そう考えられる理由は至ってシンプル。
    不特定多数の人に向けて情報を発信する際、その情報がどちらかに傾いたものである場合、情報という非常に強力な武器を持つメディアが片側に肩入れすることになり、その反対の立場の視聴者やスポンサーからは当然反発を食らう。そして同じ理由から「不特定多数に向けた報道は公正中立であるべきだ」と考えてる人からも反発がある。
    それはある意味とても自然な考え方だと思う。
    実際多くのマスメディアは守りに入り、公正中立を装い、中身のない報道を繰り返している。

    だが、あくまで「情報は視点」であり、やはり「カメラに中立性など無い」のである。
    そのことに気付かないフリをしている、いや、気付かないフリをせざるを得ないマスメディアには良いドキュメントがいつまでたっても撮れない。
    だから日本には優れたフリーのジャーナリストやドキュメンタリー監督が多いのだ。そう思っていた。

    しかしなんということでしょう!←
    それをマスメディアでありながらやってのけているではありませんか琉球朝日放送!!
    これは放送業界的に結構すごい事件だと思うんだけど...w

    じゃあなぜ琉球朝日放送はマスメディアでありながらこんな映画を作れたのか、そしてなぜ多くの評価と共感を得ているのか、
    その答えは映画の中にこそあると思う。

    映画の舞台、東村高江(ひがしそんたかえ)は沖縄の中でも特に自然が豊かで、森に囲まれた小さな村。
    DSC_0060
    しかし米軍のジャングル訓練施設に見事なまでに囲まれており、さらに村を囲うようにヘリパッドが6つも新設される計画が進んでいて、そこにはあのオスプレイも配備されるとのこと。

    当然住民は抗議し、議会でも反対決議をしたが、全く聞き入れてもらえず何の説明もないままに一方的に工事の通告だけがされた。
    声が届かないなら、もう「座り込みしかない」という想いで座り込んだ住民の中の15人は、国から「通行妨害」で訴えられてしまう。
    ちなみに国や力を持つ企業が、声を上げた個人を弾圧・恫喝するために訴えることをアメリカではSLAPP(スラップ)裁判と呼び多くの州で禁止しているそうだ。
    DSC_0024
    このとき訴えられた人の中には、住民の会の代表のゲンさんの家族も入っており、一度も現場に行った事のない当時まだ7歳だった娘の海月ちゃんもその一人だった。
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    それだけじゃない。何も知らない人が見たら「被害妄想か?」と思ってしまいそうな程に刺激的なタイトルがこの映画に付けられているのは、高江村に「ベトナム村」だったという過去があるからだ。
    「ベトナム村」とはベトナム戦争当時、米軍の演習場内に作られたベトナムの山村を再現した村で、実践直前の襲撃訓練などに使われていたそうだ。なんとそこで南ベトナム人の役をやらされていたのは当時の高江の住民達だったというのだ。まさに標的代わりにされていたわけだ。
    そしていまもなお「標的の村」と呼ばれる程の厳しい現実が高江にはあることがまざまざとスクリーンに映し出されていく。
    DSC_0063

    昨年9月9日、オスプレイの配備を目前に開かれた怒りの県民大会は10万人を超えた。
    市民運動で10万人というのはとんでもない数である。
    3.11以降盛り上がりを見せた原発反対運動も、複数の強い呼びかけがあった国会包囲や日比谷公園の集会でようやく10万人を超す規模だ。しかも都内だし、全国から人が集まっていた。
    それを考えると沖縄の県民大会に10万人というのは驚異的な数字と言える。しかも会場までのアクセスだって良くないはずなのに。

    その後、政府は何の根拠も示さないままオスプレイの安全宣言を出した。
    県民の声を受けて仲井真知事は急遽上京し、森本防衛大臣に直接オスプレイの配備中止を要請。
    しかしその直後、政府は電話一本でオスプレイを配備すると通告した。

    そして9月29日~9月30日。この映画のハイライトだが、なんと普天間基地が住民によって完全封鎖されたのだ。
    基地の4つのゲート前に、住民が乗用車を何台も並べ、基地の機能を麻痺させた。
    普天間基地のゲートが完全に封鎖されたのは戦後67年の歴史の中でも前代未聞のことだったが、この異常事態は全国ネットのニュースではほとんど伝えられることはなかった。
    そのことがこの映画を作る動機にもなったという。

    沖縄県警の機動隊は排除に乗り出し、人々は強制的に運びだされ、車はレッカー移動される。
    そこには強制排除される沖縄選出の国会議員の姿もあり、カメラや記者もみな同様に排除されていく。

    車の中で涙を流しながら歌う女性の、沖縄特有の響きを持つ力強くも美しい歌声が響き渡る。
    その歌声の持つ力は強烈で、スクリーンの中の人も映画を見てる観客もみんな同様にすすり泣いていた。
    自分もここ最近で一番泣きそうになった。目がものすごく潤んだ。おれの目にも涙である。
    涙で明日が見えないほどだ。まぁおれは涙が無くても明日が見えてないけどねー(号泣)!

    ここで重要な指摘は、排除される側は当然のことながら排除する側(防衛局・県警)も沖縄県民であるという点だ。
    「ないちゃー(本土の人)もアメリカもなんにもしてないよ!うちなんちゅ(沖縄県民)同士でこんなことしてるんだよ!?」と泣きながら訴える。
    「市民を守る為に警官になったんだよねぇ!?」と。

    10月。県民の必死の抵抗とは対照的に、ものすごくあっけなく、簡単に、オスプレイは沖縄に飛んできた。
    7歳の頃に国に被告にされた少女の海月ちゃんは11歳になっていた。
    「お父さんお母さんは、子供達の将来の為にオスプレイに反対してくれているから、お父さんお母さんが疲れちゃって、もう嫌だな、ってなったときには今度は私が代わりにやってあげたい。」とカメラに語った。
    もう一度言おう。11歳の少女がだ。

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    さて、ここまで映画の内容に触れながら書いてきたが、最初のほうに書いた問いに戻ろう。
    なぜ琉球朝日放送はマスメディアでありながらこんな映画を作れたのか、そしてなぜ多くの評価と共感を得ているのか、

    それは、対立関係にある両者の間に、映像の中で作られたものではなく、明らかに現実として明白な力の差があり、両者の正当性にも明らかな差があるということ。
    そして、一般論として「情報という非常に強力な武器を持つマスメディアが片側に肩入れすることになる」と書いたが、沖縄のローカルTV局にそれは全く当てはまらず、彼らの力は非常に弱く、県民同様に国から排除される側の存在である、ということではないだろうか。

    この映画がこれだけの支持を集めているのはその証拠となる。
    いくら片側の立場に寄り添っていても、それが不自然だったり、相手の正義を軽視していては共感は得られない。
    なのにこれだけの共感を得ているということは、明らかに現実として両者の間の力と正当性に明確な偏りがあると多くの人が感じているからだろう。
    監督も語っていたが、沖縄の人々は「民主主義の中でやれることは全部やっている」のである。
    それでも声は届かない、全く聞き入れてもらえない。それが日本の民主主義の姿をあぶり出している。
    この映画は、その虐げられている人たちにこそ徹底的に寄り添い、彼らの声なき声を届けているのである。
    そして彼らもまたローカルTVという土俵では情報の力が弱く、全国放送では取り上げてもらえないから、ドキュメンタリー映画として全国に届けているのである。
    同じなのだ。立場も、視点も。
    沖縄の住民は闘い、その闘いを情報として我々に届けることで琉球朝日放送も闘っているのだ。
    この映画の全国興行は、座り込みや県民大会や普天間封鎖と同じ、県民の闘いの一部なのだ。
    そして、虐げられた人々の埋もれてしまった声なき声を、増幅して届ける、それこそが本来あるべきドキュメンタリーの姿なのである。
    本当に素晴らしい真のジャーナリズムだ。
    DSC_0057

    ◇◇◇◇おまけ◇◇◇◇
    ポレポレ東中野の一階にあるカフェ&イベントスペース「ポレポレ坐」がステキだったので軽くフォトレポートします。
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    外観。
    DSC_0071
    外にはオープンカフェも。
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    ステキな写真や、本もたくさん。
    DSC_0029
    ん〜、いいですね。
    DSC_0035 DSC_0036
    エスニック風なもの、というかゾウ、がいっぱい、だゾウw  右のゾウちょっと怖いゾウw
    DSC_0030
    店の奥はイベントスペースになっていて、色んな展示や、生演奏などがおこなわれるそう。
    DSC_0031
    オシャレ空間ですね。
    DSC_0038
    アイスカフェオレをいただきましたが、ブランデー?がついてきました。阿佐ヶ谷の超絶おしゃれな名曲喫茶ヴィオロンでもブランデーがついてくるけど、この辺のカフェの特徴なんでしょうか?
    ちなみに豆はフェアトレードのものを使っているとメニューに書いてありました!さすがわかってらっしゃる!
    DSC_0037
    映画を観る前や観たあとには、ポレポレ坐にどうぞ。

    以上でございます。まただいぶ長くなっちゃったなw。

    テーマ : ドキュメンタリー映画    ジャンル : 映画

    プロフィール

    Sohei.S

    Author:Sohei.S
    多趣味というか関心のあるものが多いので、政治的なことから趣味のことまで、書きたい事はなんでも書いていこうと思います。
    ちなみに主な趣味は映画、音楽、オーディオです。3つとも割とどっぷりいってると思います。あと最近、写真も趣味に加わりました。
    映画は単館系のドキュメンタリーから、シネコンの娯楽映画や映画音響やIMAXの話まで。
    音楽はジャズ/クラシック〜ポストハードコア/メタルコア〜エレクトロニカ/ポストロック/ポストクラシカルまで、かなり雑食にオールジャンル聴いてます。ドラムとパーカッションやってたので演奏や音楽史にも興味あります。あとミックスやマスタリングなどにも興味があります。
    オーディオはポータブルとホームオーディオ両方です。ケーブルとかポタアン自作したりもしてます。
    拍手、ツイート、コメントなど大歓迎です。
    それではよろしくどうぞ〜m(_ _)m。

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