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    あれやこれやのなんやかんや

    多趣味というか関心のあるものが多いので、趣味のことから政治的なことまで書きたいことを書きたいように書いていきます。

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    『真珠のボタン』〜“水の記憶”への思索の深さと“星の視座”による時間軸の長さ〜

    10/8〜10/14まで、学校の合宿として山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加してきました。
    映画祭の全体のことについては、また書く機会があれば書きたいと思いますが、
    ここでは、自分が見た全20作品の中で、特に素晴らしいと感じたパトリシオ・グスマン監督の『真珠のボタン』について書いた文章を載せておきます。
    ネタバレもあるので、まだ見ていない方は気をつけて下さい。
    ちなみに岩波ホールでこの映画と対になる前作『光のノスタルジア』と同時公開中です。
    自分はまだ前作は見ていないので、とりあえず『真珠のボタン』についてのみの論考ですが、
    『光のノスタルジア』も見てみて、また書きたいことや、2作を貫く何かが見いだせたら書いてみたいと思います。

    公式HP http://www.uplink.co.jp/nostalgiabutton/




    「The farther backwards you can look, the farther forward you are likely to see.
    過去をより遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。」

     ―ウィンストン・チャーチル



    主に視覚と聴覚によって知覚される映画というメディアにあって、
    映像が美しいということは、決して揺らぐことのない大きな価値である。
    それは絶対的に正義である、とまで言ってしまってもいいのかもしれない。
    手放しでそう信じさせてくれるほどに『真珠のボタン』の映像は圧倒的に美しい。
    劇映画も含めて、自分がいままでに見た全ての映画の中で、間違いなく最も美しい。
     
    ここでいう映像の美しさとは解像度のことではない。
    解像度は撮影や編集などの機材に大きく依存するが、
    この映画の映像は機材に頼って到達できるレベルを明らかに逸脱している。
    一体どうすればこれほど美しい映像を捉えることができるのだろうか。
    それも、文明の触手が届かないチリの大自然のただ中で…。

    ただ単に見た目として映像が美しいというだけではない。
    人間の感覚や時間軸、想像や理解をもはるかに越えるチリの極地の雄大な自然を映し出したその映像には、
    単純な美よりもさらに高次の、詩的で、呑み込まれてしまいそうなほどに深く、時間と空間の次元を超越し、静謐ささえも湛えた、超自然的な「崇高」さが宿っている。

    その崇高な映像に引き寄せられるように、パトリシオ・グスマン監督の思索もまた、人間の感覚や時間軸を超えて、
    鋭く深く“水の記憶”へと分け入り、さらに深淵で長大な“星の視座”へと到達していく。

    チリには、水とともに生き、星を畏れ崇める先住民族がいたのだ。

    彼らの一人が「真珠のボタン」と引き換えにイギリスへと送られ「文明化」された。
    そしてその後、先住民族は虐殺され支配されてしまった…。
    ここでの「文明化」とは、「ボタン」と名付けられたそのチリの先住民族の一人に行われたことのみを指しているのではない。
    なぜなら監督は“星の視座”に立っているからだ。
    その視座に立ったときに見通せるものや浮かび上がってくるものは、この恐ろしい歴史を幾重にも重ね合わせたように、とてつもなく重厚で根が深い。
    映画の中で辿られる先住民族への虐殺と支配の方法と過程は、まさにジャレド・ダイアモンドの大著「銃・病原菌・鉄」を想起させ、人類史全体をも容赦なく貫いていく。

    そして、それと同時に監督は、「ボタン」の数千年もの疑似タイムスリップの体験や、その後の先住民族虐殺の被害者となったひとりひとりの生や無念に対しても、ミクロなレベルで真摯に向き合おうと試みる。
    なぜなら監督は、丹念に“水の記憶”を辿っているからだ。
    そこに彼らの声を聴き、そこに彼らの魂を読む。

    やがて映画は潜水し、光が当てられず歴史の闇に包まれた、水深の深いチリの海底において、思わぬ方向へと舵を切る。
    繰り返される歴史の中の現在地点、私たちの時間軸へと立ち返るのだ。
    そこには、同じように虐げられ失われた人々がいた。

    そして、その2つの虐殺の歴史を、たったひとつの「ボタン」によって見事に接続してみせる。
    これほど劇的で大胆な展開の妙を可能にさせたのも、“水の記憶”と“星の視座”によるものであろう。
     
    冒頭では、抽象的で曖昧に思えてしまった“水の記憶”と、
    宇宙などと文字通り大風呂敷を広げているようしかに映らなかった“星の視座”は、
    恐るべき鋭さで人類史を辿り、この世界の真理を確かにかすめながら、
    やがて私たちの生きる感覚と時間軸に立ち返り、チリの負の歴史を克明に浮かび上がらせてみせた。
     
    私たちはまたここから、自らの足で一歩ずつ歩みを進めていかなければならない。

    だが、この“水の記憶”と“星の視座”は、私たちに時空間を超えさせ、人類史という長さの過去を垣間見せることで、
    果てしない未来への展望と希望とを与えてくれる。

    “水の記憶”を想い“星の視座”に立ってみたとき、私たちはみな「水の民」であると言えるだろう。
    そして、そのことを忘れなければ、かつてチリの「水の民」が渡ってみせたように、
    私たちもまた、船を制御し、舵を切り、巨大な大洋の流れに流されることなく、目指す目的地へと進んでいけるはずではないだろうか。

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    Category: 映画 > ドキュメンタリー、ミニシアター   Tags: 映画レビュー  

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    『子宮に沈める』を、記憶に浮かべる。

    新宿K'sシネマで緒方貴臣監督最新作『子宮に沈める』を観てきました。


    2010年の大阪二児放置死事件をモデルにして、育児放棄やシングルマザーについて描いた劇映画です。


    予告編


    公式HP
    http://sunkintothewomb.paranoidkitchen.com

    自分は緒方監督のデビュー作『終わらない青』もUPLINKで観ました。
    父親からの性的虐待を受け、リストカットなどの自傷行為を行う女子高校生をリアルに、そりゃあもうリアルに(笑)
    描いていて、衝撃を受けたのを覚えています。
    でも、『終わらない青』は確かに考えるきっかけにはなったものの、整音などの作りの荒さや、見た後に自分の中でどう処理していいかわからない程の鮮烈すぎる描き方で、正直あまり好きな作品ではありませんでした。
    でも、ずっと小骨が喉にひっかかったように「残る映画」だったので、作品はもちろんその特殊なプロフィールや製作方法なども含めて緒方監督には一目置いていました。

    その緒方監督が育児放棄問題にフォーカスを当てて『子宮に沈める』という映画を撮ったと知って、ドキッとしました。
    自分が0歳のとき、自分の両親が離婚した理由がほかでもない母の育児放棄だったからです。
    怖い気持ちもありましたが、そこまでナイーブちゃんでもないしw、そいつぁ見たいぜ!という好奇心が圧勝してしまったので、緒方監督とNPO法人Wink理事の新川てるえさんとのトークショーを狙って観に行きました。

    どうしても当事者(?)としての自分の話や視点が含まれてしまうので、まともなレビューにはならないかもしれませんが、以下感想や考えたことなどを書いていきます。


    ++++感想や考えたこと(ネタバレあり)++++

    ◎まず、映画としての描き方について◎

    『終わらない青』のときはすごく気になってしまった「音」は、今作ではきっちり整音されていた。
    前作『体温』は見ていないのだが、完全自腹の自主制作で映画製作を続けてきて、映画の質や技術レベルあるいはスタッフなどの人材の面においても、着実に進歩してきているのはすごいことだと思う。
    特に関心したのはカメラワークだ。
    緒方監督の特徴として、固定カメラによる長回しで、実際の現実の風景を覗き見ているかのように切り取ることが多いのだが、今作ではそのカメラにも多くの工夫がされていて、飽きずに見ることができた。
    特に感じたのはピントとボケだ。
    被写界深度が浅くピント位置がシビアなレンズを使って、わざと顔からピントを外していたり、置きピンをしたり前ボケを入れたりしていて、ボケ具合やピント位置などの遊び心がとても映画的で美しかった。
    部屋の天井に近い位置から、垂直に下に向けたカメラで部屋全体を上から映すカットもあり、どうやってカメラを固定したんだろうとか思いながら見てた。
    カメラが家の中から一切出ない密室劇なので、こういう見せ方の工夫は本当に重要な要素だったと思う。
    あとは、『終わらない青』でも多用してた暗転は今作でもカットの繋ぎ目で多用されていた。
    断片を切り取って並べる際にそのまま直接繋げないという技法は、時間を飛ばしたり想像力を喚起するという意味では有効だけど、その度にいちいち集中が切れかけるので嫌いな人はもしかしたら嫌いかも。
    でもこの映画の場合、あれがないと息がつまり過ぎて死ぬ気がするけどw
    ちなみに暗転の長さもひとつひとつ微妙に変えてあるらしい。
    実際の大阪の事件では子供が置き去りにされた期間はなんと50日間にも及ぶそうだ。
    子供達にとってあまりにも長いその時間の経過を、あの暗転によってひとつひとつ表現しているのだろう。
    スクリーンが暗転している間、観客は見たまんまの暗闇を想像させられる。

    もうひとつ特筆すべき点は、徹底したリアルな作り込み。
    実際の姉弟にこだわったというキャスティングや、子役の演技(というよりは素の反応)や母親の由希子役の伊澤さんの痛ましいほどリアルなシングルマザーっぷり。
    特に映画後半での幸(さち)の室内サバイバルシーンは圧巻。
    こういう子のことを「天才子役」と呼ぶのだ。
    土屋季乃ちゃんホントよく頑張った!
    演技だけではなくセットもリアルだ。ゴミが散乱しまくっていて、スクリーンから異臭が感じられる程の部屋の内部の作り込みや、映画の最後の方で出てくるハエやウジ虫(本物)などなど。

    それらの描き方から見えてくる監督の意図は、「ただ、見せる。」ということだと思う。
    全く動かないカメラはほとんど何の主張もせず、音楽のない日常の音は感情を誘導することもなく、ただそこにある現実として見るものに迫ってくる。
    そのときそこで起こっていたであろう光景を、警察も記者も実際の母親ですらも見ていない、あの部屋の中の光景を、映画としての想像力と描写力で、残酷なまでにはっきりと「ただ、見せる。」のだ。
    これはドキュメンタリーではできない。映画でしかできないことだ。
    監督の作品や発言からはジャーナリズムを感じる部分もあるが、あくまでもドキュメンタリーでも報道でもない、劇映画として作品を描いている。
    ただし、エンターテイメントでは決してない。
    ドキュメンタリーでは撮れない、エンターテイメントでは重みがない、その中間にあるものを劇映画として表現するためには、確固たるこだわりと徹底した作り込みが必要になるということだろう。
    そういうフィクションは時としてノンフィクションを凌駕するほどの重みを持つ瞬間があるのだ。
    そういう映画は好きだし、そういう映画を撮る監督はもちろん他にもたくさんいる。
    例えば同じネグレクトの問題を扱ったもので言えば是枝監督の『誰も知らない』は有名だ。
    ただ、緒方監督はその点においてどの映画監督よりもとがっている(笑)
    うかつに触れるとケガする程にとがっているw。だからこそ作品には相応の重みがある。
    「重み」というと「軽くなる」けど、『子宮に沈める』からはもっともっと実在的な「質量」を感じる。
    それが下っ腹に「ズシン」とくるのだ。
    見ろと強制は出来ないし、見て欲しいともなかなか薦めづらい映画だが、もし覚悟ができたのならばぜひとも見て頂きたい映画だ。
    特にこれから子育てに関わっていくであろう人たちや、現在進行形で子育てに関わっている人に。


    ◎感想や考えたことなど◎

    映画は前半部、育児と家事を一人でこなす「良き母」としての由希子を描き出す。
    あやとりにロールキャベツに超豪華なキャラ弁。
    この時点ではまだ離婚していないが、すでに母は孤独な状態に陥れられていた。

    脱線するけど、個人的にロールキャベツは見事だと思ったw 
    演出としてあそこでロールキャベツを巻かせるのは100点満点w
    ロールキャベツって、メジャーな料理だけど、作るとなるとめんどくさいし、気合い入った料理だからね。
    ロールキャベツが、由希子が「良き母」であろうと頑張る姿をすごく象徴してるように見えた。
    だってさ、あれってそもそもキャベツで巻く意味ある?なんでキャベツで巻くの?しかも縛る意味あるか?そこまでするか?ニクキャベツデマイテイッタイナニガシタイ?
    ……てかロールキャベツってなんなんだ!?(笑)考えてみたらだいぶ謎な料理だな!
    そうかわかったぞ!お母さん達を追いつめているのはロールキャベツだ!!間違いない!!
    ロールキャベツは魔の料理です。(結論)
    全国のお母さん、ロールキャベツは育児放棄に直結する危険性があるので、
    今夜は肉団子入りのコンソメスープで妥協しましょう。
    とか思ったりしてたw←

    はい、ここから何事もなかったかのようにもとのテンションに戻ります。
    離婚してシングルマザーとしての新生活がスタートしてからは、目に見えて母の余裕が無くなっていくのがわかる。特に精神的な余裕が。
    医療事務の資格の勉強をしながらパートや家事や育児に追われる毎日。
    そこに追い打ちをかけるのが、他でもない子供達だ。
    とにかく泣きじゃくって止まらない弟の蒼空(そら)。
    姉の幸も、不安なのか試しているのか、母を困らせる。
    あっちもこっちも、なにもかもが母の肩に重圧としてのしかかる。

    見るのがキツくなってきたのはこのあたりからだ。
    映画に深く入り込もうとすると、どうしても無意識のうちに自分の身や、自分の姉や母に置き換えてしまうからだ。
    当時、自分は0歳8ヶ月ほどで姉はまだ2歳になっていないころだろうか。母親は20代半ばだったのではないかと思う。
    この時点でもうびっくりだし、映画を見始めてすぐ「うわぁ〜、まんまやん(苦笑)」ってなった。
    年齢に多少の差はありそうだが、自分に当時の記憶は当然まったくない。
    するとなにが起きるかというと、おかしな話ではあるが、まるでその当時の状況をそのまま見せられているかのような気分になってくるのだ。映画の力というのはこれだから恐ろしいし、すごいのだ。
    自分はだいぶ小さく生まれてしまったらしく、かなり軟弱で、手のかかる子だったらしい。
    きっと母には多くの気苦労をかけてしまったのだと思う。
    父は仕事の関係で週末や連休にしか帰ってこれなかったのではないかというのも、父の仕事を考えれば容易に想像できる。

    ふとスクリーンに意識を戻せば、
    残酷なほどに泣きじゃくる蒼空。
    まだまだ手のかかる時期の幸。
    それを独りで背負い込みながらも、良き母であろうと気を張り続ける由希子。

    …ズッシーン!笑。

    もうひとつ見ていてキツかったのは、母が出ていってからの幸と蒼空。
    ゆりかご(?)のようなものに収まったまま泣きじゃくる蒼空を、小さな手と体でガッチャガッチャゆらしてあやす幸。
    ゆらすのを止めるたびにすぐに騒ぎだす蒼空。その度に何度もゆらしてやる幸。
    粉ミルクを床に散乱させながら蒼空のミルクを作ってやる幸。
    キッチンハイターを飲もうとする蒼空(笑)。らめぇ!といって取り上げる幸(笑)。
    幼児というのは残酷な程に無邪気で、それなのに圧倒的弱者という無敵っぷりだ(笑)。

    自分も姉には今までたくさん苦労させてきたなぁ。そしてそれはきっと物心つかないうちからそうだったんだろうな。
    スクリーンの中の蒼空と幸の姿を見て、そう思った。

    ただ、当然だけど全てが類似しているわけではない。
    ネグレクトには大きく2種類あって、積極的ネグレクトと消極的ネグレクトがあるそうだ(映画を見てから調べてみて知った。)
    積極的ネグレクトは育児ができない明確な理由がないのに育児放棄すること。消極的ネグレクトは経済力の不足や精神疾患などで育児ができなくなることだそう。まぁ、この線引きもそんなはっきり分けられるようなものではない気もするが。。。
    自分の母の場合はおそらく後者で、単に精神的に参ってしまったのだと思う。まぁこれも想像といえば想像にすぎないのだが。
    自分たちはおそらく割と早い段階で(少なくとも生きてるうちに)見つかってるし、
    2人とも父に引き取られて、父の実家で父方の祖父母に育ててもらっている。
    かなり幸運だったし、恵まれた環境で育ててもらえた。だからこんなに真っすぐでいい子に成長できた←(爆笑)

    しかし映画では、由希子は友人に勧められて夜の仕事を始める。
    そして、寂しさからかホスト通いをするようになる。
    カメラは家の中しか映さないので由希子が外に出ている部分は想像に委ねられるが、家から出るときにケバい格好をしていたり家に若い男を連れ込んだりしてるのがわかる。
    そして、なんと最後に家を出ていくときにガムテープで窓やドアを封鎖してしまっていたらしい。
    出ていく前に作って置いていったバカ盛りの大量のチャーハンだけが、力なく言い訳をしているように見える。
    ロールキャベツとの対比が見事である。笑
    状況から見て精神的に正常ではなかったともとれるが、これはどちらかといえば積極的ネグレクトと受け取られてしまうのではないか。

    ちなみに、実際の大阪二児遺棄事件では母親が風俗で働いていたこととホスト通いをしていたことが大きく報じられ、それが決定打となって母親が叩かれまくっていたそうだ。
    それらの直接の描写は映画の中には出てこないのだが、映画の中のこの母親を100%擁護できるかというとそれはだいぶ難しいように自分の目には映る。

    では、やはり母親が全て悪いのか。
    それは違うと思う。もしそうだとしたらこの映画に意義はない。
    監督はインタビューの中でタイトルについても語っている。
    『子宮に沈める』とは、かなり挑発的で醜悪なタイトル(笑)だが、どうもそのまんまの意味ではないそうだ。
    監督は事件当時のころから、社会がなんでもかんでも「母性」という言葉で片付けて「母性」というものを神話化してしまっているのではないかと感じていたそうだ。
    「育児は母親がするものだ。」「母親には「母性」があるのだから。」
    育児がうまくいかなければ「愛情が足りないからだ。」「母性が足りなかったからだ。」といわれる。
    そういう固定観念や刷り込みが蔓延する日本社会の母親に対するプレッシャーが、「母性」の象徴としての「子宮」に母も子も育児も全てを沈め込んでいるのだ。という感じの意味が含まれているそう。
    ☆参考までに→ シノドスの記事:母親を子宮に沈める社会 ――大阪二児遺棄事件をもう一度考えるために 映画『子宮に沈める』 緒方貴臣×角間惇一郎
    (それにしてもシノドスで記事になるとは。チキさんもシングルマザーの売春についてルポ書いたりしてたからかな。)
    ちなみに、映画を見ずに題名しか見てない人が単純にそのままの意味として受け取って批判しているケースが多いみたいだけど、そういう人に共通しているのが、大阪二児遺棄事件に対して100%母親のみを糾弾してそこで思考を停止させているところ。それではまさに監督が言うところの「子宮に沈める」ではないか。それこそあの事件まるごと。
    そこに一石を投じる為のこの『子宮に沈める』なのに、それすらも再び、見ようとすらしないまま「子宮に沈める」というのか。
    それは、とても視野が狭くて、すごくもったいないことだと思う。


    [上映後トークショー 左が緒方監督で右がNPO法人Wink理事の新川てるえさん]

    新川さんはシングルマザーの支援などをするNPOの理事だからか、母親側に寄り添った意見を言っていた。
    新川さんが悪いと思うのは、全てを放棄して出ていった父親だと言っていた。
    確かに母親の育児放棄以前にこの父親は父であることも夫であることも育児も全て放棄している。
    映画のコピーにもあるように「孤独が母を追いつめる」ということか。
    母子家庭に対する社会保障などの不整備やその周知の問題や、別れた元夫から養育費がちゃんと払われる割合は2割程度しかないという話もしてくれた。そりゃひどい。。。
    日本は先進国の中では、女性の社会進出の割合や、シングルマザーの貧困率や、社会保障の整備などが著しく遅れているということはもはや周知の通りだ。
    確かに父親の責任は間違いなくあると思うし、社会全体としての問題という面もあるように思う。
    でも、新川さんの社会的な立場がそうさせるのか、今度は母親側に寄り過ぎているような気がして、自分は少し違和感を感じながら聞いていた。

    では、母親も元夫や社会から放棄された被害者のひとりなのだろうか。
    では、孤独にさせた父親が悪いのだろうか。あるいは社会が悪いのだろうか。

    ...そんな単純な話ではないと自分は思う。

    そこのところについては監督と映画そのものが語ってくれた。
    監督が言うには、この映画は見る人の立場や価値観によって、誰を悪者にするかも違うし見え方も変わってくる。
    だからこの映画は、できるだけ中立に、どの登場人物にも感情移入しづらいように、ただ覗き見ている感覚になるように気をつけて作ったそうだ。
    この映画を見て、それぞれが自分なりに考えて欲しい。ということだそう。

    ただし、この映画は冷静で中立な観察者である以前に、その成り立ちからして、ひとつだけ強烈な主張を内包している。
    それは「子宮に沈めるな!」という主張であり、つまり「思考を止めるな!」という主張でもある。
    この日本社会に対して、あの事件について育児放棄という問題について、改めて考える機会を与えてくれているのだ。
    だから監督はインタビューで「とくに見て欲しい人は?」という問いに「事件当時に叩いていた人たち」と答えているのだろう。
    これらの点において、この映画はものすごく正しいと思う。
    監督自身、この事件について相当に考え抜いたのだろう。

    この事件や育児放棄について考えれば考えるほど見えてくるのは、
    一般化できるような明確な正解の無さであり、問題・社会・家族・親・子・育児・人間などの途方もない複雑性だ。
    この事件のケースだけでも、シングルマザー、男女格差、貧困(ワーキングプア)、雇用制度、社会保障、支援制度、行政、風俗業、性教育、精神疾患、地域コミュニティ、etc…。 
    事件の要因として、様々な問題や社会状況が挙げられるし、それら同士もまた相互に複雑に関係し合っている。
    背景にあるさまざまな要因が複雑に絡み合い、少しずつ歪みを生み出していき、その最悪の結果として育児放棄に繋がるのだ。
    それを、誰が悪い、なにが悪い、と責めあってみてもあまり意味がない。
    そんなことで済んでしまう話なら、もう育児放棄なんて起きないだろう。
    さらに言えば、そうやってなんでもかんでも単純化・一般化したがり、多様性にことごとく不寛容な現代の社会の風潮もこの問題の大きな要因のひとつであると自分は思う。
    残念ながら、これからも似たような事件は起きるだろうし、育児放棄はなくならないと思う。
    その背後にある途方もない複雑性を、まずは一人一人が認識するところから始めるしかないのだ。
    その複雑性から目を背け、全てを母親の「母性」に押し付けて「子宮に沈める」という行為は思慮に欠けると言わざるをえない。
    母親(個人)の問題と結論づけて思考を止めれば、社会はひとつも改善を見ないままにまた同じことを繰り返し、そしてまた同じ反応を繰り返し続けるだろう。
    これは個人レベルではなく、社会レベルで考えるべき問題なのだ。
    人間と社会の複雑性を頭に入れた上で、一人一人がまた改めて考え抜いていくしかない。
    その結果、それこそ多種多様で複雑な回答が人の数だけ導き出されていくだろう。
    それは言ってみれば社会が思考するということであり、そうやって社会は僅かずつ改善しながら前に進んでいくのだ。
    それは例えばWinkの新川さんやGrowAsPeopleの角間さんのようにNPOとして女性の支援をすることかもしれないし、あるいは緒方監督のように映画を撮ることかもしれない。
    あるいは自分が父親になったとき育児に積極的に参加しようとする心構えなのかもしれない。
    あるいは自分が母親になったときに、自分にも起こりうることとして気をつけてみることかもしれない。
    もし育児がつらくなってもひとりで抱え込まずにSOSが出せるように普段から備えておくことかもしれない。
    もしかしたら、自分の周りで大変そうなシングルマザーを見かけたとき、たった一言、優しい言葉をかけてやるだけのことなのかもしれない。
    ひょっとしたら、今夜はロールキャベツはやめて肉団子入りのコンソメスープで妥協する勇気なのかもしれない←
    もしくは、チャーハンは一度に大量に作りすぎないように気をつけることなのかもしれない←
    そうやってすこーしずつ、母親をサポートできる社会に、子育てのしやすい社会に、社会全体で子育てをするような社会に、一歩ずつ進んでいければいいと思う。

    ・複雑性を理解すること。
    ・過去から学ぶこと。
    ・社会を前に進めること。
    ・ひいては、まずは一人一人が考えること。

    この映画はその出発点となりうる。
    だから、この映画はとても正しいと思う。とても慎重で、優しくて、真摯な映画だと思う。
    自分はこの映画を支持するし、多くの大人に見て欲しいと思う。
    新宿のK'sシネマでは12/6までの公開で、どうやらDVD化はしない予定らしい。
    劇場に足を運んで見て欲しいという意図はよくわかるけど、育児放棄を描いた映画として残して伝えていく(社会に思考させ続ける)という意味では、むしろDVD化すべきなのではないかなとも思うのだけど。


    なんにせよ、この映画は自分にとって大切な映画のひとつになった。
    自分の生い立ちにも関わるし、そこに正面から向き合わせてくれた。
    育児放棄についてこんなに長い時間、こんなに深く考えたことはなかった。
    言ってしまえば作り物の映画だから、自分の幼少期の記憶を補完するなんてことはないのだけど、
    なんとか生かされて、もうすぐ23歳になろうとするいま現時点での自分の記憶の中に、大切な映画のひとつとして、育児放棄について考える材料として、

    『子宮に沈める』を、記憶に浮かべる。


    +++++++++++++++



    ロビーで監督と主演の伊澤さんにサインもらってしまった!
    少しだけだけど、話もできた。
    監督は、映画のエグさとは違って優しそうな人。
    子役達にあんなことをさせた人物とは思えないw

    伊澤さんは自分の話を聞いて「え!? エグられなかったですか?それだけ心配です。」と心配してくれたw
    そんなに深くエグられてないので大丈夫ですよ!笑←
    伊澤さんはラストシーンが特にすごかった。
    お腹の子供を文字通り子宮に沈めようとするシーンと、シャワーを浴びながら瞳孔開いてギョロギョロするあの目が。

    ※追記
    あのラストの一連のシーンについての解釈を書き忘れていたけど、大阪での公開も始まったことだし、自分なりの解釈を書いておきたい。もうすでにうろ覚えだけどw。
    まずあの手編みの赤いマフラーは、冒頭でのシーンからも読み取れるように子供への偽りなき深い愛情を表している。
    そして同時にあの赤い糸が血の繋がりを表現しているのだと思う。
    鮮やかな緑のシートで子供の亡骸を丁寧にくるむシーンも、ロールキャベツを丁寧に巻いていたシーンとクロスオーバーする。
    そして最後にお腹の子供を子宮に沈める描写では、死んでしまった2人の子供に赤いマフラーを巻き、そのマフラーから編みかけの赤い糸が繋がったままの編み棒を使って自分の性器,子宮を傷つけている。
    そこから読み取れるのは「いまも、3人とも偽りなく愛している。」ということ。と同時に「自分には母になる資格がない。」という想い。
    このお腹の子もこの2人のように不幸にしてしまう。自分に母親になる資格はない。だからこの子は産んではならない。という想い。子供達に対して言葉にならないほどに申し訳ないと思う気持ちと、自分に対して言葉にならないほどに嫌悪する気持ち。
    それでも、お腹の子供も死んでしまった2人の子供も、(いまも)心の底から愛しているのだという偽りのない気持ち。
    そして何をもってしても否定できっこない血のつながり。
    それらが全てないまぜになって、精神が崩壊しかけるほどの状態になっての、あの激しい慟哭と嗚咽なのだ。
    そしてシャワーを浴びながら瞳孔開いてギョロギョロするあの目こそが、彼女の精神状態の不確かさを表している。
    あのシーンは、この母親を単なる子殺しの殺戮者ではないのではないか、という視点をもって注意深く観る人にだけ何かが伝わり、ほんの僅かに考えるヒントとなるシーンだ。監督が中立に気をつけて(むしろ母親の立場に寄り添わないように気をつけて)描いたこの映画の中で、監督ができる精一杯の母親に対する理解の描写なのではないかなと自分は思った。
    たぶん、もっと簡単に、母親が育児放棄に至るまでの過程やそこにあった問題を丁寧に描いてやることはできたはず。
    でもそれでは意味がないし、それが正解だとも思えない。やはり観た人に自分の頭で考えて欲しい。ということなのだろう。
    この映画で、育児放棄に至るまでの流れを丁寧に描こうとすると、母親の心理を間接的に描写したり、カメラを部屋の外に持ち出さなければならなくなる。
    しかしそれでは、観客はただ受け身になるだけで、深く考えたり想像力を働かせられなくなってしまうし、この映画の本質すらも変わってしまう。
    この映画は説明的描写が皆無だが、だからこそ観客があれこれ考えて想像力を働かせるしかないようになっている。
    そしてその想像力こそが、いまも起こりうるこの現実に対して我々に最も必要なものなのだ。
    この映画を見て、この部屋の外の世界やこの母親について想像力を働かせられないのであれば、現実でも想像力を働かせることなんてできない。
    だから監督は、誤解されたり批判されたり物議を醸すということをわかっていながら、あえてそのリスクを負い、観客を愚直に信じ、この映画の受け取り方やこの映画の意義にいたるまでを、観客ひとりひとりの想像力と思考に完全に委ねたのだ。その姿勢と覚悟に敬意を表したい。

    それに、もしそういう育児放棄に至るまでの過程やその後ろにあるもっと大きな背景などを知りたければ、あの事件の背景や実際の母親やその家族に至るまでを徹底的に取材したルポがあるし、それを読めばいいということを監督自身も言っている。

    そして、最後に母親が窓から青空を見上げるラストシーンは「どんなに孤立しても同じ空でつながっている」という母子たちへの監督からのメッセージでもあると、監督自身が語っている。
    やはりこの映画は、厳しく辛い映画でありながらも、とても真摯で優しい映画なのだと自分は思う。
    映画が、というよりも、映画を通して監督やスタッフや役者さんたちの想いが伝わってきて、それがすごく真摯で優しいのだ。

    あと、これは映画全体に対して言えることだけど、緒方監督は作家性が素晴らしいと改めて思った。
    赤や緑の色彩の使い方、徹底的につくり込まれた構図や小物の配置、そして子供目線(ローポジション)からの固定カメラなど、あの小津安二郎監督に近いものを感じた。
    小津安二郎監督があそこまで自由に作家性を追求できたのは当時の撮影所システムが機能していて、同じスタッフや同じ俳優を常に登用して自由度の高い状態で作品作りを続けられたからだが、
    緒方監督はそれに近いことをインディペンデントの自己資本映画としてやってのけている。いまの時代を考えるとこれはすごいことだ。リスクもかなり高い。自分だけならいいが、仲間まで食えなくなりかねない。
    そして一貫して現代社会の問題などを題材にして作品を撮っている。小津監督も一貫して「昭和の家族」を撮り続けたが、緒方監督は方法論もテーマも現代に即した形にアップデートしているのだ。
    もっと評価されてしかるべきだと思う。今後がますます楽しみな監督である。



    伊澤さんに撮影について聞くと、やはり大変だったそうだ。辛かったと。
    そりゃそうだよなw あんな役やったら役が残って頭おかしくなるんじゃないか?
    でも、監督の残酷なまでにリアルな見せ方も含めて、そういう真摯な作り込みのおかげで、観客も違和感なく映画に深く入り込めるし、深く考えることができるのだ。
    あと、伊澤さんて柴崎コウに似てる(?) 凛としててすごくキレイな人だった。


    記念撮影してたので横からパシャり。


    あ、ちなみにこの映画の半券があるとK'sシネマ毎年恒例の『ヘヴンズストーリー』(12/14~12/20)が割引料金で見れる。
    全9章、4時間38分の、殺人・復讐・再生の物語。
    この映画もまた、ものすごい「質量」を持つ、日本映画史に残る素晴らしい映画。
    自分は今回で5回目になるw 『子宮に沈める』に向き合った自分へのご褒美として見に行く予定w。
    この記事をここまで読んでる人は『子宮に沈める』観に行った人が多いと思うので、その半券を持ってぜひ。



    ++++じぶんのこと++++

    最後に少し自分のことを書いてみる。
    自分の母の育児放棄について。

    考え方にいろんな変遷はあった。
    母のことを悪く思ったり、ひどい母親だと思った時期もあった。
    自分の子の育児を放棄するって、一体どういうことなの?意味わからんわ。って思うこともあった。
    じゃなんで産んだんだよ…って。
    腰が曲がったおばあちゃんが大変そうに家事をしているのを見たり、おばあちゃんが倒れたあとに姉が必死で代わりに家事をやろうとしているのを見て、母親さえいればこうはならなかったのにと思うこともあった。
    でも、血が繋がっているということは紛れもない事実で、育児放棄しようが離婚しようが親権が父親に移ろうが、母の血がいまも自分の中には流れているのだ。
    その母を否定することは、自分の存在をも否定することになる。
    自分の中のこういうところは、もしかしたら母からもらったものなのかもしれないと思うこともあった。でも確かめようがない。自分のルーツがわからない。自分がわからない。そう悩んだこともあった。

    そして、多くの思春期の息子達と同じで、父が大嫌いになる時期もあった。
    そのころは、実は父が悪かったんじゃないかと思ったりもした。
    父が仕事ばかりで家事や育児を全て母親に任せ切っていたんじゃないかとか。
    なのに自分だけ被害者面してんじゃねぇよとまで思ったこともあったw。

    あと、いまとなっては笑い話だが、自分がいけなかったんじゃないかと思うこともあった。
    自分は体が貧弱で、ものすごく手のかかる子だったということを祖父から聞かされていたから。
    いらん子だったんじゃないかとかw
    肉体的にも精神的にも母に大きな負担をかけて追いつめる自分が存在しなければ、父と母と姉の3人だったら家族円満にうまくいってたんじゃないかとか。
    でもこれは当時、自分の中では確信に近かったと思う。
    母親も父親も姉も、誰も否定せずに尊重しなければならないとなったとき、その矛先が自分に向くのは当然のことだ。

    あとは、ロールキャベツを憎悪した時期もあった…かもしれないw。


    いまでは、母は若くして家事と育児を一手に引き受けて大変だったんだろうな。精神的に追いつめられていったんだろうな。無理させちゃったんだな。と思う。(そう思うための小さな手がかりやすごく希薄な根拠のようなものは一応ある。という程度での想像にすぎないが。)

    一方で、父は父で家族を養うということをすごく考えて仕事をしていたんだろうなと思う。
    子供達の将来のことまで考えて、特殊で大変な仕事を勤めあげていたんだろうな、と素直に尊敬できる。

    あと、自分がいらん子だったわけないっしょ!それはないわw!こんないい子なのにw!?ギャハハ!
    と思うこともできる。(…..生まれてきてごめんなさい笑)


    それはやっぱり、誰かが悪いわけではなくて、みんながそれぞれ不安要素を抱えていて、いろんな要素が複雑に絡み合って、その結果として起きてしまったことだと思うから。
    だから自分は誰を責めることもない。たまにはロールキャベツも食べたい。


    ただし、そういうことが起きてしまいやすい社会であり、
    そういうことが起きてしまったとき、真っ先に母親を責めやすい社会だなとは思う。

    子育てがしやすいとは到底言えないし、家事や子育ては母親任せになりやすい社会。
    他人と違うことが許されないし、失敗に対しても不寛容な社会。
    フォローもしてくれないし無関心なくせに、プレッシャーだけはものすごいかけてくる社会。
    そういう、誰に対しても優しくない社会だなということはすごく思う。

    それはやっぱり少しずつでも改善していかなければならない。
    子供と一緒に、母親も父親も、そして社会も、少しずつ成長していかなければならない。
    そのひとつひとつの小さな成長が、相互に複雑に絡み合って、その結果として、
    育児放棄の一歩手前で踏みとどまれるように。
    ただただ、そう願うのみである。


    あと、自分にとっては、顔も声もわからないし記憶の中にすら存在しない母に対して、
    自分が確信を持って言えることがひとつだけある。

    上に書いたように、こんなクソみたいな生きづらい社会だし、
    そのくせやたらと複雑で、そんな社会で生きることは死ぬほどめんどくさいことだけど、

    それでも、いまではその複雑さやめんどくささも含めて、
    やっぱり人生はおもしろいと思えるようになったし、というかまずおれがおもしろいしw←

    だから、、、ひとつだけ、、、


    産んでくれて、ありがとう。


    おわり。

    ※もういっこ追記
    この記事を書いてから少したった2013年の12月8日で23歳になりました。
    そのときに気付いたんですが、

    自分の誕生日が、好きです。

    ...まぁ誰だって好きでしょうけどねw

    その日付も数字も、一日中そわそわした感じも、ふわふわ感やわくわく感も。
    そして、いろんなことを考える日なんです。
    この一年間はどうだったろうか、自分は少しでも成長したのだろうか、23歳の一年間はこうでありたい、とか。

    もちろん母親のことについても自然と考えたりします。
    いま、どこでどうしているだろうか。
    母にとっての12月8日はつらい日になってしまっていないだろうか。
    いま、笑えているだろうか。とか。

    そして、戦争についてなども考えたりします。
    12月8日は真珠湾攻撃の日なので。
    おじいちゃんには戦争の話をこれでもかってくらい聞かされましたw。

    12月8日はジョン・レノンの命日でもありますね。ファンに銃殺されたんですよね。
    だからジョン・レノンのこととか、ロックの歴史とか、音楽に一体なにができるのかみたいなことを考えたりもします。
    でも「音楽は平和をもたらすか」みたいな、くさくて小さくてつまらない話はそんなに好きじゃないです。
    そんなクソみたいな問答よりも、音楽は人類にとって絶対的に偉大で不可分なものですからね。
    ちなみに、その犯人は今年仮釈放されるそうで、ちょこっと騒がれたりもしてるみたいです。
    誰か忘れたけど、有名な熟練ロックバンドのおっさんが「出てきたらおれが殺す」みたいなこと言ったらしいですwww

    あと、12月8日はさま〜ずの大竹の誕生日でもあります。
    だから面白いことも考えます。あの大竹のようなシュールで落ちついた面白さが欲しくてたまらないですw

    まぁ、そんな誕生日が、自分は好きです。
    自分にとっての誕生日が嫌な日じゃないということが、幸せなことだなと思うし、
    ただ単純に嬉しいだけの日というわけでもないことが、すごくありがたいことだなと思います。

    まぁ誰からも何ももらえない日なんですけどねーw!!←

    テーマ : 映画館で観た映画    ジャンル : 映画

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    『標的の村』@ポレポレ東中野

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    先日、ポレポレ東中野で『標的の村』を見てきました。
    ドキュメンタリー映画観まくってるのになんとこの日が初ポレポレ。
    有名なミニシアターなので知ってはいたんですが、なかなか行く機会が無かったですね。
    かける映画のラインナップを見ても、ここはミニシアターの中でもややマニアックなのかな~という印象です。
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    階段を下りて行くと、映画関連の様々な掲示物が。
    DSC_0018
    記事の切り抜きや、補足情報など、びっしりです。
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    UPLINK、イメージフォーラムなども記事の切り抜きを貼っていますね。
    しかしここはユーロスペース並の多さですw。

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    スクリーンは地下にひとつ。
    思ってたよりでかいスクリーンでびっくりしました。縦長の珍しい形のスクリーンです。

    予告編


    ++++感想(ネタバレを含む)++++

    こんなに心が強く揺さぶられるドキュメンタリーは久しぶりに観た。
    素晴らしいジャーナリズムだ。
    見始めてまず感じることは、この映画がかなり沖縄の人や高江の人の側に立っているということだ。
    中立性など糞食らえと言わんばかりに、高江の人々に徹底的に寄り添い、代弁し、補完し、弁護している。

    自分は幸いな事に、森達也さん(この作品にもコメントを寄せていて「公正中立などありえない。なぜなら情報は視点なのだ。主観的で当たり前。」と語っている)や、「カメラに中立性なんて無い。そんなことを言っているから良いドキュメントが撮れないんだ。」と語っていた福島菊次郎さんなどの、本物のジャーナリズム精神を持つ個人やその言葉たちにこれまで数多く触れてこれた。
    だからこの映画が高江の人の視点に寄っていることには全く疑問を感じなかった。
    しかし、その前提があるにも関わらずなお、自分に「それにしても徹底的に寄り添ってるな」と感じさせる程の寄り方であった。
    しかし真に驚くべきは、それをやっているのが琉球朝日放送というローカルTV局だという点だ。
    マスメディアがこれをやっているのだ。
    これはものすごいことだと思う。

    自分がなぜわざわざ森達也さんや福島菊次郎さんの言葉をこれ見よがしに引用したのか。
    それは、一般的には報道は公正中立であるべきだと考えられているからだ。
    そう考えられる理由は至ってシンプル。
    不特定多数の人に向けて情報を発信する際、その情報がどちらかに傾いたものである場合、情報という非常に強力な武器を持つメディアが片側に肩入れすることになり、その反対の立場の視聴者やスポンサーからは当然反発を食らう。そして同じ理由から「不特定多数に向けた報道は公正中立であるべきだ」と考えてる人からも反発がある。
    それはある意味とても自然な考え方だと思う。
    実際多くのマスメディアは守りに入り、公正中立を装い、中身のない報道を繰り返している。

    だが、あくまで「情報は視点」であり、やはり「カメラに中立性など無い」のである。
    そのことに気付かないフリをしている、いや、気付かないフリをせざるを得ないマスメディアには良いドキュメントがいつまでたっても撮れない。
    だから日本には優れたフリーのジャーナリストやドキュメンタリー監督が多いのだ。そう思っていた。

    しかしなんということでしょう!←
    それをマスメディアでありながらやってのけているではありませんか琉球朝日放送!!
    これは放送業界的に結構すごい事件だと思うんだけど...w

    じゃあなぜ琉球朝日放送はマスメディアでありながらこんな映画を作れたのか、そしてなぜ多くの評価と共感を得ているのか、
    その答えは映画の中にこそあると思う。

    映画の舞台、東村高江(ひがしそんたかえ)は沖縄の中でも特に自然が豊かで、森に囲まれた小さな村。
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    しかし米軍のジャングル訓練施設に見事なまでに囲まれており、さらに村を囲うようにヘリパッドが6つも新設される計画が進んでいて、そこにはあのオスプレイも配備されるとのこと。

    当然住民は抗議し、議会でも反対決議をしたが、全く聞き入れてもらえず何の説明もないままに一方的に工事の通告だけがされた。
    声が届かないなら、もう「座り込みしかない」という想いで座り込んだ住民の中の15人は、国から「通行妨害」で訴えられてしまう。
    ちなみに国や力を持つ企業が、声を上げた個人を弾圧・恫喝するために訴えることをアメリカではSLAPP(スラップ)裁判と呼び多くの州で禁止しているそうだ。
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    このとき訴えられた人の中には、住民の会の代表のゲンさんの家族も入っており、一度も現場に行った事のない当時まだ7歳だった娘の海月ちゃんもその一人だった。
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    それだけじゃない。何も知らない人が見たら「被害妄想か?」と思ってしまいそうな程に刺激的なタイトルがこの映画に付けられているのは、高江村に「ベトナム村」だったという過去があるからだ。
    「ベトナム村」とはベトナム戦争当時、米軍の演習場内に作られたベトナムの山村を再現した村で、実践直前の襲撃訓練などに使われていたそうだ。なんとそこで南ベトナム人の役をやらされていたのは当時の高江の住民達だったというのだ。まさに標的代わりにされていたわけだ。
    そしていまもなお「標的の村」と呼ばれる程の厳しい現実が高江にはあることがまざまざとスクリーンに映し出されていく。
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    昨年9月9日、オスプレイの配備を目前に開かれた怒りの県民大会は10万人を超えた。
    市民運動で10万人というのはとんでもない数である。
    3.11以降盛り上がりを見せた原発反対運動も、複数の強い呼びかけがあった国会包囲や日比谷公園の集会でようやく10万人を超す規模だ。しかも都内だし、全国から人が集まっていた。
    それを考えると沖縄の県民大会に10万人というのは驚異的な数字と言える。しかも会場までのアクセスだって良くないはずなのに。

    その後、政府は何の根拠も示さないままオスプレイの安全宣言を出した。
    県民の声を受けて仲井真知事は急遽上京し、森本防衛大臣に直接オスプレイの配備中止を要請。
    しかしその直後、政府は電話一本でオスプレイを配備すると通告した。

    そして9月29日~9月30日。この映画のハイライトだが、なんと普天間基地が住民によって完全封鎖されたのだ。
    基地の4つのゲート前に、住民が乗用車を何台も並べ、基地の機能を麻痺させた。
    普天間基地のゲートが完全に封鎖されたのは戦後67年の歴史の中でも前代未聞のことだったが、この異常事態は全国ネットのニュースではほとんど伝えられることはなかった。
    そのことがこの映画を作る動機にもなったという。

    沖縄県警の機動隊は排除に乗り出し、人々は強制的に運びだされ、車はレッカー移動される。
    そこには強制排除される沖縄選出の国会議員の姿もあり、カメラや記者もみな同様に排除されていく。

    車の中で涙を流しながら歌う女性の、沖縄特有の響きを持つ力強くも美しい歌声が響き渡る。
    その歌声の持つ力は強烈で、スクリーンの中の人も映画を見てる観客もみんな同様にすすり泣いていた。
    自分もここ最近で一番泣きそうになった。目がものすごく潤んだ。おれの目にも涙である。
    涙で明日が見えないほどだ。まぁおれは涙が無くても明日が見えてないけどねー(号泣)!

    ここで重要な指摘は、排除される側は当然のことながら排除する側(防衛局・県警)も沖縄県民であるという点だ。
    「ないちゃー(本土の人)もアメリカもなんにもしてないよ!うちなんちゅ(沖縄県民)同士でこんなことしてるんだよ!?」と泣きながら訴える。
    「市民を守る為に警官になったんだよねぇ!?」と。

    10月。県民の必死の抵抗とは対照的に、ものすごくあっけなく、簡単に、オスプレイは沖縄に飛んできた。
    7歳の頃に国に被告にされた少女の海月ちゃんは11歳になっていた。
    「お父さんお母さんは、子供達の将来の為にオスプレイに反対してくれているから、お父さんお母さんが疲れちゃって、もう嫌だな、ってなったときには今度は私が代わりにやってあげたい。」とカメラに語った。
    もう一度言おう。11歳の少女がだ。

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    さて、ここまで映画の内容に触れながら書いてきたが、最初のほうに書いた問いに戻ろう。
    なぜ琉球朝日放送はマスメディアでありながらこんな映画を作れたのか、そしてなぜ多くの評価と共感を得ているのか、

    それは、対立関係にある両者の間に、映像の中で作られたものではなく、明らかに現実として明白な力の差があり、両者の正当性にも明らかな差があるということ。
    そして、一般論として「情報という非常に強力な武器を持つマスメディアが片側に肩入れすることになる」と書いたが、沖縄のローカルTV局にそれは全く当てはまらず、彼らの力は非常に弱く、県民同様に国から排除される側の存在である、ということではないだろうか。

    この映画がこれだけの支持を集めているのはその証拠となる。
    いくら片側の立場に寄り添っていても、それが不自然だったり、相手の正義を軽視していては共感は得られない。
    なのにこれだけの共感を得ているということは、明らかに現実として両者の間の力と正当性に明確な偏りがあると多くの人が感じているからだろう。
    監督も語っていたが、沖縄の人々は「民主主義の中でやれることは全部やっている」のである。
    それでも声は届かない、全く聞き入れてもらえない。それが日本の民主主義の姿をあぶり出している。
    この映画は、その虐げられている人たちにこそ徹底的に寄り添い、彼らの声なき声を届けているのである。
    そして彼らもまたローカルTVという土俵では情報の力が弱く、全国放送では取り上げてもらえないから、ドキュメンタリー映画として全国に届けているのである。
    同じなのだ。立場も、視点も。
    沖縄の住民は闘い、その闘いを情報として我々に届けることで琉球朝日放送も闘っているのだ。
    この映画の全国興行は、座り込みや県民大会や普天間封鎖と同じ、県民の闘いの一部なのだ。
    そして、虐げられた人々の埋もれてしまった声なき声を、増幅して届ける、それこそが本来あるべきドキュメンタリーの姿なのである。
    本当に素晴らしい真のジャーナリズムだ。
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    ◇◇◇◇おまけ◇◇◇◇
    ポレポレ東中野の一階にあるカフェ&イベントスペース「ポレポレ坐」がステキだったので軽くフォトレポートします。
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    外観。
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    外にはオープンカフェも。
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    ステキな写真や、本もたくさん。
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    ん〜、いいですね。
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    エスニック風なもの、というかゾウ、がいっぱい、だゾウw  右のゾウちょっと怖いゾウw
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    店の奥はイベントスペースになっていて、色んな展示や、生演奏などがおこなわれるそう。
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    オシャレ空間ですね。
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    アイスカフェオレをいただきましたが、ブランデー?がついてきました。阿佐ヶ谷の超絶おしゃれな名曲喫茶ヴィオロンでもブランデーがついてくるけど、この辺のカフェの特徴なんでしょうか?
    ちなみに豆はフェアトレードのものを使っているとメニューに書いてありました!さすがわかってらっしゃる!
    DSC_0037
    映画を観る前や観たあとには、ポレポレ坐にどうぞ。

    以上でございます。まただいぶ長くなっちゃったなw。

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    『南の島の大統領』@新宿K'sシネマ

    CSC_0903 DSC_0871
    先日、新宿のステキミニシアターK'sシネマでドキュメンタリー映画を見てきました。
    イメフォ、UPLINKと同じくらい、自分がよく行くミニシアターです。公式HP→K'sシネマ
    DSC_0867
    スクリーンは一つですが、キレイな映画館です。
    かけてくれる作品も素晴らしい映画が多く、ここもオススメのミニシアターです。
    座席に傾斜がほとんど無いのが惜しいところですがビルの3階なので仕方ないですね。
    DSC_0865 DSC_0864
    スピーカーはJBLです。ミニシアターにしては音は良いほうです。

    DSC_0856
    見てきたのは『南の島の大統領 -沈みゆくモルディブ-』というドキュメンタリー映画。
    レディオヘッドが音楽で全面強力したとのことで、音楽にも期待して見に行きました。

    予告編



    ++++感想(ネタバレを含む)++++

    まず初めにモルディブというたくさんの小さな島からなる小国について紹介される。
    その空撮や映像美が素晴らしい。
    そして何よりモルディブの蒼く澄んだ海、珊瑚礁と美しい砂浜、それらに囲まれた小さな島々が息を飲むほど美しい。
    まさに”地上の楽園”と呼ぶにふさわしい。
    それを更にレディオヘッドの「Kid A」が鮮やかに彩る。これは鳥肌モノ。
    視覚と聴覚がフル稼働する。
    DSC_0017

    その後、映画の前半部分ではモルディブの歴史、独立後の独裁政権と民主化闘争について描かれていく。
    この映画の主人公モハメド・ナシードが、30年に渡って続いたガユームの独裁政権を倒し、モルディブの民主化を成し遂げる。
    まず彼は仲間とともに政権を公然と批判する雑誌「サング」を発行する。
    その記事をめぐって何度も政治犯として投獄される。マット1枚しか無い1畳ほどの独房になんと18ヶ月間も投獄されたこともあったという。拷問も2度受けているというから驚きだ。
    スリランカ・英国に政治亡命し、モルディブ民主党の設立に関与し、欧米各国に対しモルディブの民主化を訴え、
    その支援により帰国。
    国内と欧米からの圧力を受けガユームは総選挙に追い込まれる。
    その選挙で見事に勝利し、ナシードは大統領となりモルディブの民主化に成功した。
    それらの過程を、ナシード本人や仲間達の話、当時の映像などを交えながら、テンポよく楽しげに描いている。
    ここでもレディオヘッドの曲が頻繁に使われる。
    映画の編集自体のテンポが早いため、曲も次々と切り替わっていくのだが、やや節操のない感じはある。
    エレクトロを取り入れているとはいえ、ビートの強い曲も多いのでここは仕方ないところか。
    しかし、曲が持つ力はやはり凄まじいものがある。
    モルディブの民主化闘争の激しさと険しさを力強く表現してくれている。

    映画ではあまり語られていないが、ここで注目すべきはモルディブの民主化の過程である。
    大抵の民主化闘争は大規模な内戦を伴う。
    圧政に堪え兼ねた民衆は立ち上がり、反政府の武装勢力を形成することが多い。
    しかし、ナシードはその道を選ばなかった。
    彼が握ったのはペンであり、雑誌を発行し政権批判の記事を書いた。
    そして、亡命後は世界各国に対してロビー活動を展開し、
    国際的な民主化圧力という強力な武器を形成し、モルディブの民主化を成功させた。
    これはお手本のような民主化闘争のあり方だろう。

    幾度もの投獄、非暴力、桁外れのリーダーシップ。
    自分が尊敬するガンジーやマンデラを彷彿とさせる。
    尊敬に値する素晴らしい人物だ。

    ただし彼の物語はこれで終わらない。
    むしろここから始まるのだ。

    民主化を喜ぶヒマもなく、彼は地球温暖化問題に積極的に取り組んでいく。
    この映画が映しているのが、彼が大統領に就任してから1年の間だというから驚きだ。

    モルディブは平均海抜が1.5mしかなく、2100年には海に沈んでしまうと懸念する学者もいる。
    モルディブにとって気候変動は国家存亡の問題なのだ。

    民主化闘争と同じようにテンポよく痛快に、彼の地球温暖化への取り組みを紹介していく。
    ここでも音楽が素晴らしい。
    どこで何の曲が使われたかは良く覚えてないが、全体的にアルバム『Kid A』からの曲が多かったと思う。
    「Everything In Its Right Place」「Idioteque」「Optimistic」に「Kid A」などの名曲が、
    美しい島や海の映像や、痛快な民主化闘争や温暖化問題への取り組みのバックで大音量で流れるのだ。
    そりゃあもう最高に決まってるw。「えびせ〜ん♪笑」
    明るく、痛快で、ノレて、見ていて楽しくなるドキュメンタリー映画だ。

    ナシードは大統領就任後すぐに、モルディブを世界初の「カーボン・ニュートラル(二酸化炭素の排出量と吸収量の相殺、要はCO2プラマイゼロ)」にすると宣言。
    酸素ボンベをつけて海中閣僚会議を行ったり(会議にならんだろw 字も書けんwww)、スーツ姿で膝まで海に浸かった状態でのCM撮影(?)をしたりwww
    このユーモアとそこからくる求心力や話題性も彼の大きな武器だ。

    そしてこの映画のハイライトは2009年のCOP15(コペンハーゲン気候変動枠組み会議)でのナシードの活躍だ。
    それぞれの国の思惑がひしめき合い、紛糾し、なかなか合意に至らない国際会議の場で、ナシードは孤軍奮闘する。
    各国の代表と直接会って交渉したり、メディアをうまく活用したり、主要排出国であるインドや中国へ圧力をかけたり。
    特に最後のスピーチは感動的だった。

    COP15は世界の環境問題を解決するためとしてはほとんど進展がなく、政治的強制力を持たない合意であるため失敗だったと捉えられることが多い。
    だからそれをこの映画の最後に持ってきたことに少し疑問を持ったりもしたが、
    その一方で、初めてアメリカ・中国・インドが二酸化炭素排出削減に合意した歴史的な会議だとする見方もある。

    そして、この映画は地球温暖化や気候変動についての映画というよりも、
    モハメド・ナシードという一人の政治家について、いや、ひとりの人間についての映画だと言える。

    政治家としてはもちろん、人として本当に素晴らしい。
    民主化を平和的に成功させるだけでも相当すごいのに、
    地球温暖化という更に難しく険しい問題にも怯むことなく果敢に挑んでいく。
    日本の政治家には、彼を少しでも見習って欲しいものだ。

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    民主主義を導入したのは子供達を独房に入れたくなかったから。
    環境難民にもしたくない。
    我々は滅びるわけにはいかない。
    必ず生き残る、それを実現させるにはどんなことでもやる。 —モハメド・ナシード



    「気候とは交渉できない」「We want to survive」という言葉がいまでも強く印象に残ってる。

    ナシードはその後、2012年に与野党の対立が激化し、連立が崩れたことで辞任に追い込まれた。
    まだ民主主義が根付いているとは到底言えず、国民自体も民主主義を理解できていない。
    そして2013年9月7日。いまから一週間後に大統領選挙が行われる。
    ナシードは現在、その大統領選挙に向けて、精力的に選挙活動に励んでいるそうだ。
    そこにはきっと映画で見たような生き生きとしたナシードの姿があるに違いない。

    不正の無い公正で透明な選挙が行われることと、彼の勝利を祈る。

    ”安定した民主政治がなければ、気候変動問題に取り組むのは困難だ” 
      —モハメド・ナシード

    テーマ : 映画館で観た映画    ジャンル : 映画

    Category: 映画 > ドキュメンタリー、ミニシアター   Tags: 映画レビュー  

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    観察映画『選挙2』の観察

    7/19にステキミニシアターのイメージフォーラムに想田和弘監督の最新作『選挙2』を観に行ってきました。
    参院選の投票前になんとか観たいと思っていたので、ギリギリ観れてよかったです。

    おしゃんてぃな外観ですよねw 
    イメフォはよく行くんですが良質な映画をかけてくれるオススメのミニシアターですよ。
    想田監督との結びつきも強いみたいですね。

    もう結構な有名人になられたので説明不要かとも思いますが、知らない人のために簡単に説明すると、
    想田和弘監督は、ドキュメンタリー映画界では世界的に高く評価されている監督で、ナレーション・テロップ・台本・BGMなどを一切排し、被写体をただただ観察するという「観察映画」という手法を提唱・実践されている監督です。
    『いのちの食べかた』『眠れぬ夜の仕事図鑑』のニコラウス・ゲイハルター監督の手法にも近いものがありますね。
    もとはドキュメンタリー界の巨匠フレデリック・ワイズマン監督を習ってのことらしいのですが、自分はまだワイズマン監督の作品は観た事がないので、いつか観てみたいです。

    近年では想田監督はTwitterやブログや誌面などで積極的に自身の政治的な主張を発しているので、そっちで知った方も多いかと。自分もよくRTさせてもらってますw。
    そういった自身の主義主張をはっきりするところも、リベラルな主張やそのバランス感覚も、もちろん映画の素晴らしさも含めて、いまの日本において数少ない尊敬できるお方だと思います。
       
    ここに貼った3作品と昨年同時公開された『演劇1』『演劇2』が想田監督の過去作品となりますが、さすがに輝かしいですね。ここまで成功してるドキュメンタリー監督って日本では稀じゃないでしょうか。

    『選挙2』の前作となる『選挙』では、想田監督の東大時代の友人の山さんこと山内和彦さんが、ひょんなことから小泉自民党の公認候補となり川崎市議会議員補欠選挙に立候補し、党の強力な組織力と徹底的なドブ板選挙によって見事に初当選する様子を観察し、日本の選挙のおかしさや民主主義の実像を見事にあぶり出すことに成功しています。
    この『選挙』を観てから『選挙2』を見た方がより楽しめるし発見も多いと思うので、未見の方はぜひ『選挙』も見てみて下さい。いまならイメフォで8/16まで公開してるみたいですよ!http://www.imageforum.co.jp/theatre/

    そして『選挙2』では、政治からしばらく離れていた山さんが、3.11後に再び川崎市議会議員選挙に完全無所属で脱原発を掲げて怒りの再出馬!
    前回とは打って変わって、組織もカネも選挙カーも事務所も用意せず、タスキや握手も封印!
    選挙費用はポスターとハガキの印刷代として8万4720円のみ!!という極端な変貌ぶり!
    これはおもしろくないわけがない!笑 ということで前置きが長くなりましたが、以下レビューを書いていきます。


    ++++レビュー、というか観察して自分なりに発見したこと++++

    映画を見始めて(いや、たぶん見始める前の予告の情報の時点からすでに)山さんに親近感(または安心感)が沸いてきて、観察する視線が好意的になっていたと思う。
    『選挙』を観たのはずいぶん前なのであまり詳細に覚えているわけではないが、『選挙』のときは自分は山さんを好意的には観れていなかったと思う。それは『選挙』での山さんが自民党の組織力の下で徹底的なドブ板選挙を繰り広げていたからだろう。名前を連呼し、おじぎし、握手を求め、「改革を進めます」しか言わないw。まるでピエロだw。
    その光景がとても奇妙で滑稽で、おかしかった。
    それを「滑稽」「おかしい」と思う感覚は、あの映画を観た多くの人が共有してると思うし、あの映画が高く評価された所以でもあるだろう。
    そして、この『選挙2』では山さんはもちろん、全登場人物・全編を通してその『選挙』を観たときの日本のおかしな選挙に対する「普通の感覚」が通底しているのだ。
    ここがこの映画の非常におもしろい点。
    『選挙』で想田監督があぶり出してみせた日本の選挙や民主主義のおかしさに、『選挙2』では観客も登場人物の政治家さん達も(同じ川崎市議会議員選挙だということも大きいと思う)、気付き、認識し、意識し、おかしい(または恥ずかしい)、という感覚を共有してしまっているのだ。
    明らかに、前作『選挙』が今作に多大な影響を及ぼしており、それは被写体にも撮影者である想田監督自身にも及んでいて、「観察」行為そのものにまで影響を及ぼしている。
    これについてはあとで詳しく書いてみたいと思う。

    つまり最初に書いた「山さんに対する親近感(または安心感)」は山さんが初めから『選挙』での選挙を反省・否定し、「普通の感覚」を持って今回の選挙に望んでいるという点からきているんだと思う。
    それはつまり、有権者(普通の感覚の人々)との距離が近いという事でもある。
    それは山さんの政策「脱原発」「子供にツケをまわさない」などにもあらわれている。言うなれば「価値観」そのものが一般市民と近づいたのだ。(自分はここまで言ってしまって差し支えないと思うが...どうだろうw)

    ただ、ここでもう一つおもしろいのが、最初に書いたように山さんに対して「親近感または安心感」は確かにあり、『選挙』のときよりはるかに好意的に観れているのだが、それでも『選挙』とはまた違った形で、山さんの行動や考えが、おかしくも見えるのだwww
    彼はどこまで行ってもピエロなのかwwwwwOrz
    なんというか、極端すぎるんだよねw 前回の反省の根拠や価値観は共有できていても、それに対する山さんの回答が極端過ぎて、またおかしいwww なんか...愛すべき主人公ですねwww
    選挙ポスターは『選挙』のジャケットのパクリだしwww それを撮る想田監督は笑ってるしwww

    まぁとにかく山さんは、方法や行動は理解できない部分もあるがw 選挙に対する感覚は普通の人に近い。
    「なんであんなことをするんだろう」「握手されたからって投票しないでしょ」「なんで原発の事を誰も言わないんだ」
    その山さんを出発点として、他の候補の選挙活動も想田監督がカメラに収めていくのだが、それぞれの候補者のカメラ(想田監督)に対する反応を見ると、選挙活動からはわからないその候補の実像や選挙に対する考え方や有権者との距離が見事に浮き彫りになるのだ。

    ある候補はカメラに向かって「政策を主張したくても法律上できなくなっているんです。だからこうしてただ挨拶をして名前を連呼するしかないんです。本当はこんな選挙やりたくないんです。」と言い訳をかましてみたりw
    ある候補は「『精神』っていう映画好きでした」と言ってくれたりw
    ある候補は笑顔で手を振りながら「あ、また映画にするの?山内君によろしく」と言ってきたりw

    そしてこの映画の大きな見せ場でもある自民党の浅野市議や持田県議との一悶着のシーン。
    浅野市議の選挙運動員に「通行の邪魔になるので撮らないで下さい」「社会人としてどうなんですか?」とか言われるwww
    想田監督も全く引かない「え、どこが通行の邪魔になってるんですか?(学生が運動員を避けて通って)あなたの方が邪魔になってるじゃないですか(笑)」とかwww
    見ててヒヤヒヤするw
    そのあとの持田県議とのシーンもおもしろい。数日前は笑顔でカメラに写っていたのに、ここまで変わるのかというくらい豹変してカメラに敵意を剥き出しにしてくる。「いいんですか?」「問題になりますよ」と。もはや脅しだ。

    この一連のシーンを見て思い出したyoutube動画がある。
    映画の話からは少しそれるが、つい先日の参議院選の東京選挙区の候補に一般人の方が取材をしてみた結果が公開されている。記事→参院選東京選挙区の候補者にアポなしで聞いてみた【動画】【候補者の動き】
    遊説中や事務所の中で直接候補者と会えてすんなり取材に成功していたり、
    共産党の吉良よし子氏や山本太郎氏は忙しいながらも事務所のスタッフが撮影者と何度か連絡を取り合ってくれて、直接取材に成功していたりする。
    その中でおもしろいのが自民党の武見氏の事務所スタッフの反応。
    事務所スタッフに趣旨を説明すると「それはやっていいの?」「おっしゃってることの意味が摑めないんだけど」「それをやる意味は?」といったことを言われたそうだw。
    そのあと「3期務めている議員であり取材の場合、マスコミでも書面を出してもらっているので、意図、質問内容、どこに公開するか、などを記した書面を出して欲しい」との指示があり、メールで依頼したが、返答はなくNGだった。とのこと。
    この反応を『選挙2』でのあのシーンを見ながら思い出した。

    どちらの映像も選挙活動からはわからないその人物の実像や有権者との距離感が、撮影されるということに対する反応からだけでも見事に浮き彫りになっている。
    選挙制度や選挙戦に対して一番違和感や恥ずかしさを感じていて、そこに踏み込んで欲しくないのは、その選挙制度を作り上げ当選を重ねてきた自民党議員達なのではないだろうか。
    そして、これからも当選を重ねていくためにもこの愚かな選挙制度は維持されるべき既得権のようなものなのだろう。

    と、そんなことを『選挙2』を観察しながら考えていた。
    候補者達の選挙戦をおもしろがり、日本の選挙の滑稽さに笑い、その制度を作り上げてきた政党の候補者が最もカメラを拒んでいるのを失笑する。
    しかしふと我に返り、その視点が外部からの第三者としての観察でしかなかったということに気付いたとき、この映画は観客にも牙を剥き、笑えない映画に豹変する。
    自分もこの国の有権者のひとりであり、この選挙はまさにいま劇場の外で行われている選挙であり、いまおもしろがって笑いの対象にしていたものは、この国の民主主義そのものだ。そしてそれを許してきたのは、他ならぬ我々有権者でもある。ということに気付いたとき、急に恐ろしくなり戦慄した(想田監督風w)

    この映画は『選挙』の続編であり、カメラが捉えあぶり出しているものも大体同じようなものだったりする。
    しかし、そこで大きな意味を持つ違いが3.11後だという事実だ。これは3.11についての映画でもあるのだ。
    マスクをしている人、ラーメン屋の「当店で使用している水は安全です」的な張り紙、会話に出てくる放射性物質、「節電」の文字、募金箱を持った街頭演説、自粛ムードなど。その違いは映像にも如実に現れている。なにせ撮影は2011年の4月だ。
    そういう小さな変化ははっきりと映像からも読み取れるのに、こと選挙に関しては『選挙』とほぼ同じ問題が浮き彫りになっている。
    政策について語らない。特に原発のことを言ってるのは驚くべき事に山さんひとりだけだ。
    有権者達はそのことに対して、いや、それどころかまず選挙自体にいまだに関心を示さない。
    「やっぱりこの国の選挙はおかしい」と再認識させられると同時に、ひとりの有権者として情けなくなる。

    『選挙2』の観察から得られる最も重大な気付きとは何か。
    それは前作『選挙』を経て、多くの人が日本の選挙に対し同じ気付きを共有し、
    さらにあの3.11を経ているというのに、
    いまも『選挙』のときと本質的になんら変わりのない日本のおかしな選挙と民主主義の実像ではないだろうか。
    時が経っても、問題意識があっても、3.11が起こっても、結局この国は変われていない。という信じがたい事実。
    戦慄せざるをえない。(監督風w)

    ラストシーンでは、山さんが防護服を着て、最初で最後の街頭演説をする。
    「私に投票してくれとは言いません。どうか皆さん、選挙に行って下さい。」と訴える。
    人は全く集まらない。足を止めて聴く人はいない。
    その横では息子の悠くんがカンフーで見えない敵と激戦を繰り広げているwww
    まるで山さんと一緒に闘っているかのよう。
    カメラはしばらくして山さんを映しながら引いて行く。
    駅構内に入るまで引き、雑踏の中に入ると、山さんの声はかき消されてもう届かない。
    山さんの声をかき消したのは、いつもの駅の「日常の音」。

    素晴らしいラストシーンだった。素晴らしいとか言ってらんないんだけどw
    本当に良いラストショット。

    暗転したあとに字幕で選挙結果が映し出され、あの自民党議員達の当選と山さんの落選が知らされる。
    「まぁ、そうだろうね」という落胆と絶望と、この国の有権者の一人としての恥ずかしさを背に劇場を後にした。


    ++++観察映画の進化++++

    この映画を読み解くためには、今までの観察映画全てを見る必要がある。それくらいこの映画は今までの観察映画の方法論や気付きが詰まっていると思う。
    想田監督はまず『選挙』で監督デビューすると同時に「観察映画」というジャンルを作り上げた。
    『選挙』では、想田監督は黒子のようにただただ被写体を観察する。
    透明人間の術を使えるのではないかというくらいの黒子ぶりで、カメラの視点のみに監督を感じる。

    その次の『精神』では、『選挙』で確立した手法を踏まえながらも、想田監督の存在が『選挙』よりも明らかに出ている。
    こらーる岡山の患者さんに話しかけられたり、監督が話を聴いたりしているからだ。
    当然、想田監督の問答や相づちの音声も入っている。
    カメラに向かって良い事を言ってみて、笑って「はいカット!」って言う人まで映ってるwww
    これを想田監督は「参与観察」と呼んでいる。
    そもそも本当に透明人間になれるわけはないし、被写体と撮影者との関係性というものもドキュメンタリーにおいては重要な要素なので、こうなったのは当然とも言えるだろう。

    『Peace』は観察映画では自分が一番好きな映画だ。『選挙』や『精神』が、ある程度は最初から監督の仮説の上に成り立っているのに対し、『Peace』は偶然性が非常に強い。
    そもそも「平和」をテーマとした映画を作れと言われても、仮説なんか立つわけないし、何を撮れば良いのかが明確にわかるわけがないのだ。監督も「ぼくにイラクに行けって言ってるのか(笑)」とか言ってたし、最初は断ろうとしてたそうだ。
    しかし想田監督は何を血迷ったのか猫を撮り始めたwww
    ちなみに猫は想田監督作品には全て出演している。想田監督と猫は、もはやティム・バートンとジョニー・デップの関係だw が、監督は重度の猫アレルギーだそうだwwww
    義父の飼っている(?)猫たちと、義父と義母の福祉の仕事をとにかく観察していく。
    『選挙』や『精神』のように、撮るべきものが明確ではないし、次に何を撮ってどう解釈すれば良いのかもわからない。そんな状況の中で、とにかく目の前のものを撮りまくって観察していく。
    すると、橋本さんとの出会いや、彼の口から発せられる戦争の話。ネコのネクタイ。
    「これだけが楽しみ」と言ってタバコを吸う。その銘柄は「Peace」。しかし橋本さんは肺を患って亡くなってしまう。
    足の悪い猫の背中にはハートマーク。義父の猫達と泥棒猫とのけんか。そして許しと共存。
    偶然が偶然を呼び、出来上がったものは紛れもなく平和についての観察映画。
    この偶然性こそがドキュメンタリーの醍醐味であり、観察映画の最大の魅力だろう。
    監督自身も撮影と観察を通して、新たに発見し気付きを得ているのだ。あらかじめ何かを準備してはこの映画は撮れない。

    そして『演劇1』『演劇2』では、人を観察するということに対して深く踏み込んで行く。
    「人は演じる生き物である」と言う平田オリザ氏と彼の演劇の舞台や舞台裏を観察していくのだが、
    まさにどこからどこまでが演じていて、どこが素なのかがわからない。
    舞台での役者としての完璧な演技、カメラの前で撮られてるという意識の下でのふるまい(演技?)、カメラのないところでも本来「人は演じる生き物である」というオリザ氏の言葉。
    そしてそれを全てひっくるめてカメラで観察しようとする監督。
    そもそも演じるとはなにか、素とはなにか、というか人間って何だ?みたいな迷宮にぶち込まれるwww

    そしてこの『選挙2』は『選挙』の後の同じ選挙区での選挙。『選挙』の影響が色濃く残っていて、『選挙2』の観察の中に『選挙』が前提として含まれている。
    そして当然、想田監督自身の存在も大きな意味を持つようになっていて、今までで一番の「参与観察」にならざるを得ない。想田監督が自分の主張を山さんにはっきり言うシーンまであるし、自民党議員と揉めるシーンは監督の政治的な立場や考え方すら明確にしている。
    登場人物達はみんなカメラが初めてではなく、前作を見ていたりする。それをふまえてカメラの前で演じてみせる。
    「撮られている」「自分はこう映される」という意識下でそれぞれの反応を見せる。
    かといって、それらの全ては狙ったわけでもなんでもない。
    それどころかこの選挙を撮ろうと決めた経緯からして偶然性の塊だ。
    事実、監督は何の選挙活動もしない山さんを前に、「一体何を撮ればいいんだ」と思ったそうだ。
    そして、結論を仮説立てたり、シーンをイメージすることなく、ただただ徹底的に観察してみせる。
    その結果、偶然が重なってあの自民党のシーンやラストショットが生まれている。

    撮影から公開まで2年もあいたのは、監督もこの映像をどう解釈してどう編集すればいいかわからなかったからだそうだ。
    しかし、昨年末の衆議院選挙の結果を受けて、一気にこの映画の形が見えて編集作業を終わらせたそう。
    全てわかったうえで予定調和として映像を撮って作られるTV番組などとは完全に真逆だ。
    監督すら映像の意味を理解できずに、ただただ観察し、やがて発見し、気付きを得る。
    映像に意味を見い出し、作品としてのまとまりを得る。
    すごいとしか言いようがない。これが「観察映画」の現在地か。
    まだまだ先がありそうで恐ろしいな。
    次回作にも期待!!



    (P.S.)
    ++++山さんと想田監督++++

    最後にちょこっと山さんと想田監督について。
    パンフレットのインタビューで想田監督は山さんのことを「『選挙2』での山さんのほうが山さんらしい」というようなことを言っている。
    あっ、『選挙』のあの山さんが変わったというより、むしろこっちが本当の山さんなのかぁと妙に納得した。

    と思えば、山さんはインタビューで「『選挙』のときの想田監督はノンポリの観察者という立場を崩さなかったけど、『選挙2』では前作の影響もあって彼は自分の政治的なスタンスを明示せざるを得なくなった。
    でも大学時代を知っている僕としては“これでこそ想田だよ”と思った。」と語っているwww

    なるほどwww 名コンビな訳だwww

    ちなみに想田監督は「僕がずっと批判してきているマイケル・ムーアに近づいたなぁと思って(笑)」と言っている。
    マイケル・ムーアを尊敬しかけている自分としては(奴を尊敬していると言い切ってしまうと敗北感ハンパ無いので言い切らないようにしているw)、これはちょっと意外な言葉だった。
    まぁ確かに映画の方法論は真逆だし、反発するところもあるだろうけど、、、ずっと批判してたのか。
    マイケル・ムーア嫌いなのかなw。
    でも自分としては、Twitterで積極的に政治的な話題に対して発言して、一貫してリベラルな姿勢を貫いてる想田監督は日本のマイケル・ムーアだと勝手に尊敬していたのでwww 想田監督のこの反応はおもしろいw 
    山さんと同じで、自民党議員と揉めるシーンを見て「それでこそ想田監督だ」って思ってたのでw、
    これからもどんどんマイケル・ムーア的になってもらいたいと思うwww
    ただ観察映画の中ではできる限り冷静な観察者でいて欲しいがw

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    プロフィール

    Sohei.S

    Author:Sohei.S
    多趣味というか関心のあるものが多いので、政治的なことから趣味のことまで、書きたい事はなんでも書いていこうと思います。
    ちなみに主な趣味は映画、音楽、オーディオです。3つとも割とどっぷりいってると思います。あと最近、写真も趣味に加わりました。
    映画は単館系のドキュメンタリーから、シネコンの娯楽映画や映画音響やIMAXの話まで。
    音楽はジャズ/クラシック〜ポストハードコア/メタルコア〜エレクトロニカ/ポストロック/ポストクラシカルまで、かなり雑食にオールジャンル聴いてます。ドラムとパーカッションやってたので演奏や音楽史にも興味あります。あとミックスやマスタリングなどにも興味があります。
    オーディオはポータブルとホームオーディオ両方です。ケーブルとかポタアン自作したりもしてます。
    拍手、ツイート、コメントなど大歓迎です。
    それではよろしくどうぞ〜m(_ _)m。

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