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『真珠のボタン』〜“水の記憶”への思索の深さと“星の視座”による時間軸の長さ〜
映画祭の全体のことについては、また書く機会があれば書きたいと思いますが、
ここでは、自分が見た全20作品の中で、特に素晴らしいと感じたパトリシオ・グスマン監督の『真珠のボタン』について書いた文章を載せておきます。
ネタバレもあるので、まだ見ていない方は気をつけて下さい。
ちなみに岩波ホールでこの映画と対になる前作『光のノスタルジア』と同時公開中です。
自分はまだ前作は見ていないので、とりあえず『真珠のボタン』についてのみの論考ですが、
『光のノスタルジア』も見てみて、また書きたいことや、2作を貫く何かが見いだせたら書いてみたいと思います。
公式HP http://www.uplink.co.jp/nostalgiabutton/
「The farther backwards you can look, the farther forward you are likely to see.
過去をより遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。」
―ウィンストン・チャーチル
主に視覚と聴覚によって知覚される映画というメディアにあって、
映像が美しいということは、決して揺らぐことのない大きな価値である。
それは絶対的に正義である、とまで言ってしまってもいいのかもしれない。
手放しでそう信じさせてくれるほどに『真珠のボタン』の映像は圧倒的に美しい。
劇映画も含めて、自分がいままでに見た全ての映画の中で、間違いなく最も美しい。
ここでいう映像の美しさとは解像度のことではない。
解像度は撮影や編集などの機材に大きく依存するが、
この映画の映像は機材に頼って到達できるレベルを明らかに逸脱している。
一体どうすればこれほど美しい映像を捉えることができるのだろうか。
それも、文明の触手が届かないチリの大自然のただ中で…。
ただ単に見た目として映像が美しいというだけではない。
人間の感覚や時間軸、想像や理解をもはるかに越えるチリの極地の雄大な自然を映し出したその映像には、
単純な美よりもさらに高次の、詩的で、呑み込まれてしまいそうなほどに深く、時間と空間の次元を超越し、静謐ささえも湛えた、超自然的な「崇高」さが宿っている。
その崇高な映像に引き寄せられるように、パトリシオ・グスマン監督の思索もまた、人間の感覚や時間軸を超えて、
鋭く深く“水の記憶”へと分け入り、さらに深淵で長大な“星の視座”へと到達していく。
チリには、水とともに生き、星を畏れ崇める先住民族がいたのだ。
彼らの一人が「真珠のボタン」と引き換えにイギリスへと送られ「文明化」された。
そしてその後、先住民族は虐殺され支配されてしまった…。
ここでの「文明化」とは、「ボタン」と名付けられたそのチリの先住民族の一人に行われたことのみを指しているのではない。
なぜなら監督は“星の視座”に立っているからだ。
その視座に立ったときに見通せるものや浮かび上がってくるものは、この恐ろしい歴史を幾重にも重ね合わせたように、とてつもなく重厚で根が深い。
映画の中で辿られる先住民族への虐殺と支配の方法と過程は、まさにジャレド・ダイアモンドの大著「銃・病原菌・鉄」を想起させ、人類史全体をも容赦なく貫いていく。
そして、それと同時に監督は、「ボタン」の数千年もの疑似タイムスリップの体験や、その後の先住民族虐殺の被害者となったひとりひとりの生や無念に対しても、ミクロなレベルで真摯に向き合おうと試みる。
なぜなら監督は、丹念に“水の記憶”を辿っているからだ。
そこに彼らの声を聴き、そこに彼らの魂を読む。
やがて映画は潜水し、光が当てられず歴史の闇に包まれた、水深の深いチリの海底において、思わぬ方向へと舵を切る。
繰り返される歴史の中の現在地点、私たちの時間軸へと立ち返るのだ。
そこには、同じように虐げられ失われた人々がいた。
そして、その2つの虐殺の歴史を、たったひとつの「ボタン」によって見事に接続してみせる。
これほど劇的で大胆な展開の妙を可能にさせたのも、“水の記憶”と“星の視座”によるものであろう。
冒頭では、抽象的で曖昧に思えてしまった“水の記憶”と、
宇宙などと文字通り大風呂敷を広げているようしかに映らなかった“星の視座”は、
恐るべき鋭さで人類史を辿り、この世界の真理を確かにかすめながら、
やがて私たちの生きる感覚と時間軸に立ち返り、チリの負の歴史を克明に浮かび上がらせてみせた。
私たちはまたここから、自らの足で一歩ずつ歩みを進めていかなければならない。
だが、この“水の記憶”と“星の視座”は、私たちに時空間を超えさせ、人類史という長さの過去を垣間見せることで、
果てしない未来への展望と希望とを与えてくれる。
“水の記憶”を想い“星の視座”に立ってみたとき、私たちはみな「水の民」であると言えるだろう。
そして、そのことを忘れなければ、かつてチリの「水の民」が渡ってみせたように、
私たちもまた、船を制御し、舵を切り、巨大な大洋の流れに流されることなく、目指す目的地へと進んでいけるはずではないだろうか。
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名倉聡美個展「約束」

以前このブログでも紹介した画家・名倉聡美さんの個展に行ってきた。
名倉聡美 個展「約束」
【前期】「流蜜」9月5日(土)~9月12日(土) 予約制
【後期】「廃巣」9月13日(日)~9月20日(日) 18:30-22:00
企画:飯盛 希
会場:22:00画廊
http://2200gallery.com/news.html
「流蜜」と名付けられた前期は予約制となっており、名倉さん本人が立ち会って自身の絵の説明をしたり、お手製のカードで来訪者を占ったりしていた。
打って変わって、「廃巣」と名付けられた後期には作家は在廊せず、来訪者はその不思議な絵画たちと1対1で対峙することを迫られていた。
この聞き慣れない展示形式も、企画者がオントロジカル・スニップというグループ展を手がけた飯盛氏であることを思えば納得がいく。
彼がオントロジカル・スニップで提示した関心ごとは「作家性」であり、そこで追い求めたものは「作品」と「作家」とを結びつける内面や思考や制作プロセスである。
オントロジカル・スニップでは、それぞれの作家と作品についてのイメージや感想を単語として書き出して共通点を結びつけて壁面にマッピングした、展示会と同名の「オントロジカル・スニップ」という作品があった。
しかしその作品を見たとき、自分には名倉さんとその作品だけが端へと追いやられ、グループ展であるにも関わらず他の作家と切り離され、彼女の描くイメージのように中空を漂い続けているままで、うまく分類しえていないように感じられた。
人間はかなりの部分で同質である、と同時に遺伝子レベルで一人ひとり異なっている。その人間が他者に対して何かを表現し、それをほぼ同質な(遺伝子レベルで異なってもいる)器官と思考によって知覚し評価する。共通する認識や言葉が出て、それを作家性と呼ぶことにする。漏れ落ちる部分が必ずある。
— 鈴木総平 (@soheisuzuki) 2015, 2月 18
彼女の作品は、絵そのものが、ありきたりな言葉で語られることを拒絶し続けるようにプログラムされているからなのだろうか。自分には彼女の絵が、絵そのものとしてしか存在していないように思えてならないのだ。
そういう感覚は飯盛氏にもあったのではないかと思う。
だからこそ今回の展示は個展であり、前期は作家との蜜月な会話や時間の共有を経て理解を深められる予約制を採用し、後期は作家不在のなか作品と1対1でじっくりとことん対峙してもらうために、22:00画廊の強みを活かして遅くまで開放していたのではないか。
ただし、「前期は予約制で作家が応対、後期は作家不在で開放」と言われてしまえば、これはやや排他的であると言わざるを得ないだろう。だが、そのことは指摘としては当たっていても批判としては必ずしも当たらない。
この個展の意義は名倉聡美を広く紹介することにはなく、まだ未知の存在である彼女とその作品が、どのようなものであるのかを(我々はもちろん、飯盛氏さえ、作家自身すらも含めて)ただただ凝視することによって、より深く理解して、どのように世に問うていくかの戦略を練ることにある。
彼女の作品に対しては、鑑賞者はそれだけの密度をもって向き合う必要がある。
カオス・ラウンジやオントロジカル・スニップのようなグループ展の中に彼女の作品が並んでいても、鑑賞者は平面作品の見慣れた形式の中に潜むその際立った異質さと自由度とのギャップにひたすら戸惑い、真正面から受け止めることを恐れてしまうからだ。
あるいは、浮かび上がってきた言葉の中からより近いものを選び出し、それが完全には一致しないことをわかっていながらも、無理矢理にはめ込んで安心し、そのまま踵を返してしまうかもしれない。
だからこそ、この重要な、絵に自由を取り戻すための解放運動は、戦略をもって慎重に進められなければならない。


彼女は以前、このようなボールペン画を制作していた。
A4くらいの紙にボールペンのみで描かれているのだが、驚異的な密度と絶妙なバランス感覚である。

そして今回の個展で展示されていたのはこのような油絵だ。
一見すると、かなり画風が異なっているように感じられるが、実は彼女は一貫してほとんど同じことをしている。
彼女はあらかじめ描く主題を決めておらず、特定のテーマを持っているわけでもない。
特定の何かを表現しようとしているわけでもないし、抽象画を描いているわけでもない。
かといって抽象表現主義として、描く過程そのものを提示しているわけでもない。
ドローイングにしろ、ペインティングにしろ、
何もないところから制作を始め、何を描いているのかわからないままに腕を動かし続ける。
ひとつのことに捉われず、パターンを生み出しては崩し、変化を求め続け、やがて確かな具象を立ちのぼらせる。
それを凝視して、ある認識に到達し、呼び名を付ける。

例えばこれは人の絵である。
彼女の説明では、絵の上部に左上を向いた人間の顔があり、目と鼻の穴と口があり、緑色の髪の毛が右へと流れている。
だが制作時、彼女はこの絵をこのように横向きに描いていたそうだ。

あるタイミングで縦にしてみたら、人間の絵ができあがっていた、ということらしい。
彼女は自身の絵を説明するとき、よく「こことこことこことここが、目目鼻口」という具合に飄々と語る。
その説明を聞いてすんなり納得できることもあれば、いや、自分にはこれはこう見える、ということもある。
人間の視覚と記憶による認識のシステムについて、そしてその個人差について、否応無く考えさせられてしまう。
画家が規定したひとつの正解があるわけではないが、鑑賞者の見方に完全に委ねられているという類いのものでもない。

たとえばこの絵では、「草みたいなのが生い茂ってる中を変な蛙が飛び跳ねている」そうだ。
そう言われてしまうと、そのようにしか見えなくなってくるから不思議だ。
上部の空白、鮮やかでありながら輪郭のつかめない背景の上で明らかに浮かび上がる緑色の物体、そして全体を見渡したときに微かにアクセントとして目に飛び込んでくる、縦に続くほぼ同じ色の軌跡。
何を描いているのかはわからないし、説明をされたところでちんぷんかんぷんではあるのだが、
この絵には主役となる部分、背景、ストーリーが存在していて、確かに説得力がある。
そしてそれら全ては、最初から規定されていたものではなく、あとから浮かび上がって来たものばかりなのだ。
かといって偶然性に依存しているというわけでもなく、もちろんコントロールされているわけでもない。
彼女の絵に共通しているのは、一見して、はっきりと何の絵かわからないということ。
それと同時に、確かに何かが描かれている「絵」であるということ。それは単なる模様や軌跡ではないし、抽象表現でもない。
そして、それはつまり言葉では表せないということだ。
「これは〇〇の絵である」「これは〇〇主義の作品である」というように言葉に置き換えることができない。
ただただ、「絵」そのものとして対峙し続けるしかない。
そうなるように巧みにプログラミングされた「絵」を描いているのだ。
これはもう立派なひとつの形式である。
言葉を拒絶し、定義をかいくぐっている。
これこそが彼女が一貫して追求していることである。
それに名前を付けて呼ぶなどということはナンセンスではあるが、わかりやすいようにあえて名付けて呼ぶとするならば、絵画における「自由主義」ということになるのではないか。
彼女の自由な絵を見ていると、この現代においてもなお、絵画とはかくも窮屈なものだったのだろうかと思わずにはいられない。
現実に存在する何か(そう多くの人間が認識できるもの)がうまく描かれていなければ絵ではないのか。
モチーフやテーマが無ければ絵ではないのか。
そうでないものを絵と呼ぶ場合、「抽象」や「表現」、「シュルレアリスム」や「〇〇主義」などという言葉を持ち出さなければならないのか。
芸術と認められるためには、高尚な理屈を振りかざして説明を加えなければならないのか。
そして一般人が一生のうちで一度も使うことが無いような言葉によって批評されなければ価値が認められないのか。
絵画とは、それほど権威主義的で排他的なものだったのだろうか。
本来、絵とは「絵」としてのみ存在しうるものであったはずである。
ただ「絵」としてのみ評価され尊敬されうる芸術であったはずである。
それは人類にとって、言葉などよりも前に、あまりにもプリミティブなものであったはずである。
彼女の一連の創作活動は、そんな美術界の絵画の現状に対して、真正面から「絵」に自由を取り戻すための解放運動である。
なぜなら彼女の描く絵は、自由と同時に、十分すぎるほどの強度と教養と美しさとを備えているからだ。
確かな技術とセンスに裏打ちされたあまりにも純粋な彼女の「絵」は、鑑賞者の目と心を奪い、それを画壇が無視することを許さない。
「自由主義」と呼んでみたのにはいくつかの理由がある。
言うまでもなく政治的な用語としてのリベラリズムを連想されるわけだが、現在広く理解されているリベラリズムという言葉の思想や特徴に、彼女の絵画は多くの共通点を持っている。
リベラリズムは古典的自由主義や自由至上主義のようなレッセフェール(自由放任)ではなく、現在形成されている秩序をある程度受け入れ、社会的公正に重きをおいている。
彼女の絵画もまた、いきなり自由放任を主張するのではなく、既存の秩序や文脈を受け入れて、その枠組みの中での自由を追求していると言えるだろう。
その網の目をくぐるようなバランス感覚は非常に鋭いものがある。
既存の秩序や文脈からかけ離れているわけではなく、むしろそれを踏まえて芸術(ハイアート)としての強度を保ちながらも、ことごとく言葉や定義をかいくぐっていくように設計されている。
そして、何も無いところから描き出されて浮かび上がってくる形状のやわらかさ、温かみのあるポジティブな色彩や、ときに印象派をも想起させる画面全体の明るさは、彼女自身が自らの絵について「ヒューマニズム」であり「平和」を表しているのだと大風呂敷を広げる言葉もそのままストンと腑に落とす。
このイメージは、自由主義と謳いながらも「啓蒙」と「寛容」こそがその源流にあり「正義」や「公平公正」を重んじるリベラリズムにもすんなりと馴染むイメージでもある。
また、ボールペン画から油絵へと形態を変えたことについて飯盛氏が問うと、「ボールペン画のときは自分のアトリエが無かったから」だという。
手軽だからという理由で、紙にボールペンで、しかもマクドナルドの机の上で制作していたのだ。
アトリエを得たことでキャンバスに油絵を描くことが可能になり、創作の幅はより自由に広がった。

ボールペン画から油絵への制作環境の変化に注目するとき、この絵は非常に挑発的かつ重要な作品である。
ミニマルに対してさえもケンカを売りにいっている。
どの方向にさえも偏ることを避け、自閉的な芸術を揶揄し、どこにも縛られずに自由であり続けるためには描く必然性のある作品であったはずだ。
ちょうど展示を見に来ていた彼女の武蔵野美術大学時代の担当教員である袴田氏は、彼女との会話の中で、この絵を指して「ボールペン画ではこういう余白の残し方はありえなかったよね」と指摘していた。
彼女は反射的に否定していたが、これは自分には重要な指摘に思えた。
制作環境が油絵へと変化したことで、自由度の幅の広さと作品としての強度を保たせるバランスが変化したのだ。
もし彼女にその自覚が無いのだとすれば、それに反応しているのは天性のバランス感覚によるところが大きいのかもしれない。
いや、もともとニュートラルな人だからこそ、こういう絵画や表現方法が内から表出してくるのだと考える方が自然だろうか。
フィールドが変わっても、一貫して同じことを追求し、そこに更なる強度を持たせることに成功している。
制作環境に制限されているのではなく、制作環境に左右されていないのである。
もちろん、モチーフに捉われることもなく、テーマにも感情にも支配されていない。
そして自らが置かれた状況のなかで、より自由であることを求めているのだ。

だからこそ、この22:00画廊に彼女が作品を搬入し始めたその瞬間から、必然的にこの画廊のスペース全体が彼女の自由な創作の場と化した。


ドラゴンの頭部であると説明されたこの絵の左側の柱に描かれた青い線は、ドラゴンの身体だという。
もともと開いていた穴をいかしたり、金具の掛けられていた跡も創作の糧とする。
普通にかわいらしい花を描いてしまったりする。

そしてこれら全てが、この自由な絵画達にとっての額縁として最も相応しいのだと納得させられる。




この人形たちは謎でしかないのだが(笑)
台座や、一体一体の造形の完成度がすごい。


また、彼女はお手製のカードで占いも行っており、来訪者の過去・現在・未来を占ったりもしている。
カードに描かれた絵や占いの内容も、彼女の創作活動の一部と言ってもいいくらいに、そこに飾られた絵たちと同じ内容を語り、彼女自身の存在の輪郭を浮かび上がらせては曖昧にゆらめかせて掴めなくさせる。
彼女の口からは「悟りを開いた」という言葉や「アセンション」という言葉も躊躇無く飛び出してくる。
だからモチーフには縛られない。特定の描きたいものなんてなく、全てがフラットだから、何でも描ける。
その言葉を前にすると、他の言葉たちと同じように「自由であろうとしている」という指摘さえもするりとかわされてしまう。
輪郭がつかめそうな気がする。何かが解りそうな気がする。
だけどどこまでもかわされ続け、やはりわからない。
だからこそ、我々は彼女の「絵」をただひたすらに、「絵」そのものとしてのみ見続けるしかないのだろう。
作家が画面と対峙していた時間へと遡り、その筆使いをなぞるように。
油絵具の重なりの下を透視し、その凹凸を触知するように。

この絵の圧倒的な密度と完成度の前では、全ての言葉が上滑りしていく。
彼女がボールペン画のときから一貫して追求し、そしてこの個展の中で様々なタイプの絵や試みを通して表してきたこと、その全てがたどり着いた到達点にこの「絵」が存在する。
この辺でそろそろ、足りない稚拙な言葉たちは脇に置き、言葉を使う思考に脳を使うのを止めて、
ただただ「見る」ことに徹しようと思う。
画家・名倉聡美の「言葉」に耳を傾けるために。