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佐村河内守の交響曲第1番「HIROSHIMA」とはなんだったのか。〜名前と心を失った交響曲〜
「現代のベートーベン」ともてはやされた全聾の作曲家・佐村河内 守が、18年もの間ゴーストライターを使って作曲していたということが、ゴーストライターを務めていた新垣氏本人の口から明かされて、世間に衝撃が走っている。
連日の報道を見ていると、この問題に対しての関心の高さ(あるいはTV的なネタとしての面白さ)がうかがえる。
この報道を受けて多種多様な反応があった。
詐欺師だ、障害を売り物にした、ファンを欺いた、被爆者や被災者を愚弄した、という怒り。
著作権の所在はどこか、作曲とはなにか、作品と作家とはなにか、という問いと戸惑い。
物語を買っていた、音楽の聴き方とは、音楽の理解のされ方とは、という根源的な議論。
なぜ検証されなかったのか、なぜここまでミーハーな盛り上がりを見せてしまったのか、というメディア批判論や自虐的な大衆論。
たったひとつの大きなウソは、自らの化けの皮を剥がすと同時に、次から次へと現代の芸術やこの社会の化けの皮までも剥がしてしまったと言える。
様々な疑問や問題が次々と浮かび上がっては消えていくこの現象は、まるでタマネギの皮むきのようで、その中心には実は何もなかったのかもしれない。
しかし自分としては、どの報道を見ても、誰の記事を読んでも、あまりしっくりこない。
だれも、この問題の真に考えるべき本質を捉えていないと感じるからだ。
おいおい、この問題を矮小化しないでくれよ。著作権なんてもうどうだっていいし、メディア論なんて聞き飽きて耳にイカだぞ、大衆の音楽への向き合い方なんて音楽史が始まって以来ずっとそうだったろうに、なにを今更得意げに当たり前のことを言っているんだ、、、と思ってしまう。
この問題は、そんな小さな問題をつついたり、以前から指摘されていたような現代社会批判を蒸し返したりするだけでは到底済まされない、極めて重大な問題だと自分は思う。それをいまから自分なりに書いていきたい。

これが問題のCDだ(笑)。「交響曲第一番"HIROSHIMA"」
NHKスペシャル『魂の旋律〜音を失った作曲家』という番組で紹介され、大反響を巻き起こし、クラシックとしては異例の18万枚もの大ヒットを記録してしまった問題作である。
そう、自分はこれを持っている(爆笑)。いまはもう話題のCDではなく、被害者であり、踊らされたピエロであり、バカでミーハーな大衆のひとりであることの認定証となってしまったがwww
あまりにも恥ずかしいのでひとつ言い訳をしておくと、NHKスペシャルの放送は2013年3月31日だが、自分がこれを買ったのは2013年の2月6日よりも前だ。(確認したらiTunesにリッピングしたのが2/6だった)
といっても全聾ということは当然知ってから買ったし、2月の時点ですでに話題にはなり始めていたと記憶している。
しかし、3月31日以降には2月とは比較にならないほど大きな話題となり、CDショップには特設コーナーが設けられ、「NHKスペシャル」「現代のベートーベン」という文字が踊っていて、それには自分も違和感を感じていた。
だがその違和感は、誇大な売り方と熱狂的な受け止められ方に対してのいつもの感じであり、作品に対するものではなかった。
もうひとつ言い訳をさせてもらうと、自分は普段から(熱心なクラシックファンほどではないが)クラシックも一応は聴くし現代音楽も聴く。CDやレコードもそこそこ持っている。
このCDについても、どちらかというと全聾ということよりもヒロシマについて描いた作品であるということの方に関心があったし、曲を試聴してみてこれは一聴の価値があると判断したから買ったのだ。
特に、ロックやJAZZでもそうなのだが、自分は政治的なメッセージを含む音楽やコンセプチュアルな音楽が好きだ。
しかし現代の交響曲において、そういうメッセージを含む音楽というのは少ないように思う。(自分が無知なだけかもしれないが)
吹奏楽曲だが天野正道作曲の交響組曲「GAIA」は、ジェームズ・ラブロックの「ガイア理論」をもとに人類が地球環境にもたらす影響などについて描いており、非常に強いメッセージ性を帯びたコンセプチュアルな作品となっている。
あと、吉松隆によるオーケストラ版「タルカス」も素晴らしい。あんなに明確にコンセプチュアルな作品は他にないw まぁ冗談はさておいてw←
そういう音楽が好きな自分にとっては、全聾で被曝二世の作曲家がヒロシマについての交響曲を完成させたとなれば、聴いてみたくなるのは当然のことだった。
また、ひとつ前のindigo jam unitの紹介記事のように、自分は時代に流されずに明確な信念を持って作られる創作物を求めてきたし、それが「本物」であるかを見極める能力を自分なりに磨いてきたつもりだった。
そしてこの「HIROSHIMA」を聴いて、コンセプトが明確な割にはわかりづらくて掴みづらい助長な曲であり、絶望に落ちては彷徨って上がって、また落ちて彷徨ってはまた上がってという難解で出口の見えなさがあるが、最後の最後は明確な希望へと導いてくれる曲であり、全聾であるからこそこの曲調になったのではないかとさえ感じ、世間の評判ほどに騒がれる音楽ではないがこれは「本物」であると確信していた。(これは本気で恥ずかしい。自分の耳や目や感性に心底腹が立つ。)
ちなみにさっきAmazonを見てみたらプレミアが付いていたが、その現象だって同じことを繰り返してるだけじゃないかアホらしいw ミーハーどもめw と思ってしまう。←
Amazonのレビューも炎上しているが、ここでもちぐはぐで表面的な意見ばかりが目立つと感じる。

演奏は、日本クラシック界最高峰の大友直人指揮の東京交響楽団だ。しかもライブ録音ではなくてセッション録音だ。
これを一体どう疑えと言うのだw 無理だろ!お前ら普段オーケストラなんか聞きもしないくせにここぞとばかりに買った18万人をバカにしてんじゃねぇぞアンポンタン!(半泣き)
そう。大友直人や東京交響楽団の団員、楽曲解説とコメントを寄せた長木誠司、日本コロムビアのスタッフ、そして当時この曲を評価した音楽評論家達、彼らでさえも皆まんまと騙されてしまっていたわけだ。
いまになって、「やっぱりな」とか「わかっていた」的なことを「誤解を恐れずあえて言わせてもらうが」的な前置きをしたうえで言い出す評論家や聴衆たちには「わかってたのはわかったからちょっと黙ってろオタンコナス」と言いたい。

読めますかね?もう著作権とか知ったこっちゃない状態だし、肝心の中身に触れられる機会が極端に少なくなってしまったので、解説やコメントなどのブックレットの写真を全ページ分載せます。
これは東京大学大学院教授で音楽学者の長木誠司氏のコメント。

いま曲を聴きながら読んでいても、なるほどなと感じる。(後で詳しく書くが、それこそが大問題なのだ。)
苦悩や病理の自覚化による交響曲への昇華を初めて試みたのはマーラーであると指摘し、しかし戦後30年経ってから西洋音楽へ参入し自らの非同時性を認知した日本の創作では、あまりにも文脈が違い過ぎてそんな音楽を書く意味がなかった。また「ヒロシマ」を問題にすることは逆に政治性を帯びすぎて(文脈に適合しすぎて)難しかった。
としたうえで、佐村河内はあまりに大きな政治性と歴史的時宣性を帯びた「ヒロシマ」というテーマを個人の苦悩として語れるようになった歴史的位置にいる。と書いている。
「そこではもはや『交響曲の歴史が終わった』という歴史認識自体が歴史的なものとなっている。」
「もしわれわれがこの長大で、形式的には晦渋な交響曲を少しでも難解だと感じることがあるとすれば、それは21世紀のわれわれがあまりにもこの作品を深く「理解」し、その世界に「共感」してしまっているからにすぎない。」
なるほど納得のさすがの考察だ。これによってこの作品を受け入れ理解を深めることができたのは紛れもない事実だ。
(そして、それが大問題なのだ。)

この写真ちょーウケるwwwwwwここからは楽曲解説。

「作曲者自身(佐村河内)のコメントによれば、第1楽章が「運命」、第2楽章が「絶望」、第3楽章が「希望」とされている。」


第2楽章、第3楽章の解説文では一文目で「形式的に明確ではない」ということが書かれている。(これも重要。)

このプロフィールもめっちゃウケるwww

英文での解説までついちゃってるんですよこれ。どうするんですかw。

大友直人さんと東京交響楽団の紹介。彼らも被害者であるが、日本オーケストラ界最高峰の彼らが譜読みによって理解と解釈を経て、演奏し表現し、ホールに高らかに響いたその音楽は、その時点では紛れも無く「HIROSHIMA」であったはずなのだ。

最後はプロダクションノート。
「佐村河内さん自身は、この作品を闇の音楽と呼んでいます。(中略)80分の旅を経て、最後の天昇コラールが鳴り響いたときの感動、それはまさに闇に降り注ぐ「希望の曙光」に感じられます。」とある。その通りだ。この音楽は当時、そう解釈する意外考えられなかった。
では、ここから問題の核心に触れていこうと思う。
この曲を実際に作曲していたのは、佐村河内氏ではなく、ゴーストライターの新垣氏であった。
それだけならまだよかった。「騙された!ふざけんな!ペテン師め!金返せ!」と叫ぶだけで済んだ。
しかし、新垣氏はこの作品をゼロから作ったわけではなかったのだ。
佐村河内氏の独自の図形譜面や細かいメモによる「発注書」をもとに作曲していたのだ。

その「発注書」がこれだ。
これはなかなか興味深い。かなり細かくダイナミクスや音のブレンド、情感表現まで指示されている。
現代音楽ではなく調性音楽として、伝統的西洋音楽の方法論をふんだんに取り入れて、しかしそれを非常に現代的で野心的なものにアップデートしてやろうという野心をひしひしと感じさせるものになっている。
問題なのはこれが『HIROSHIMA』ではなく、「祈り部」「啓示部」「受難部」「混沌部」の4つの主題によって展開される『現代典礼』という曲だということだ。
当然、新垣氏はこの発注通りに『現代典礼』という曲を作曲したのだ。
しかし、そのできあがった交響曲を『HIROSHIMA』として売り出してしまったのは他でもないこの曲の原案者である佐村河内氏なのだ。
この発注書を見ただけでは、どれほど明確に佐村河内氏の頭の中で音楽が鳴っていたかまではわからない。
しかし、少なくともイメージや主題、曲の根幹となる部分についてはこの時点では明確だったように思える。
そして、新垣氏も「この発注書がなければ自分はこの曲を作曲できなかった」という発言をしている。
それだけ明確なイメージと輪郭を自分の中に持っていたにもかかわらず、佐村河内氏はこの曲を『HIROSHIMA』として世に送り出した。しかも自分で「第1楽章が「運命」、第2楽章が「絶望」、第3楽章が「希望」である。と語り、「原爆投下直後の二十分を描く」とまで語っている。
だが当然のことながら新垣さんが作曲した時点では「原爆のことは全くイメージしていなかった。」のだ。
この嘘にまみれた悲劇の交響曲を、われわれは、どう再解釈したらよいのだろうか。
これこそがこの問題の核心である。
純粋に曲としてのことだけを考えれば、「これは編集者として佐村河内氏が発注したものを新垣氏が作曲した『現代典礼』という曲である。」と解釈し直すことができる。
「この曲を気に入った人は、これからは新垣さんの曲として純粋な気持ちで聴けば良い。」という意見も散見する。
しかし、そんな簡単に済ませてしまうことはできないはずである。
そこにはいくつかの理由があるが、ひとつは原案者である佐村河内氏自身が、このできあがった曲を再解釈し『HIROSHIMA』として売り出してしまっている点だ。
(ここで問題となるのは「楽譜が書けないということは正確な譜読みもできなかったのではないか」という疑惑と「実は全聾ですらなかったのではないか」という疑惑。できあがった『現代典礼』はその時点では譜面なので、それを読めなかったのであれば再解釈して題名を変えるなんてできるはずがない。あるいは聴こえていたのだとしたら、曲を聴いて彼の中で明確に再解釈して『HIROSHIMA』として売り出したのかもしれない。そしてもうひとつは、ただ話題性を得るためだけに音楽的なことは全く無視して題名だけ『HIROSHIMA』として売り出したのではないかという疑惑。)
そしてもう一点、上述の()内の過程がどうであれ、この交響曲は『HIROSHIMA』として広島交響楽団によって世界初演され、それを引き継いで広島初演版に基づく改訂版の第1,第3楽章が大友直人指揮の東京交響楽団によって東京初演されたのだ。その時点で、この曲の解釈も表現も、そしてホールに響く音楽も、紛れもなく『HIROSHIMA』であったのだ。
そしてそれはそのまま聴衆に『HIROSHIMA』として受け入れられ、そこに込められた(とされた)メッセージも曲を通して真摯に受け取られて、高く評価された。この時点での評価は純粋に『HIROSHIMA』というこの交響曲に対してのものであったはずだ。
そしてその後、さらにメディアの誇大な物語先行の宣伝によって、全聾であることと被曝二世であることが広く知られ、それを前提とした大衆による熱狂的な評価に再び塗り替えられたのだ。これは広島および東京初演時の評価や解釈とさえもまた異なっている。
では、交響曲はいつ完成するのだろうか?
楽譜が出来上がったときだろうか。実際にオーケストラによって鳴らされたときだろうか。
聴衆に受け取られ、評価されたときだろうか。それとも遥かなときを超えて普遍的な評価が定まったときだろうか。
この交響曲はいったいなんなのか、これからなんと呼べばいいのだろうか。
もとは新垣氏作曲の『現代典礼』かもしれないが、日本最高峰の一流のオーケストラによって再解釈・再構築され『HIROSHIMA』としてすでにわれわれに届けられてしまったではないか。
そして一流の音楽学者である長木誠司氏の解説やコメントによって、曲を聴いただけではわかりづらく難解だと思っていたそれに明確な解釈の仕方を見いだしてしまったではないか。
その証拠に、この原案の発注書を見てこの曲を聴きながら『現代典礼』として再解釈しようとしても、どうもしっくりこない。
だが、嘘が暴かれてしまったいま、この曲が『HIROSHIMA』であると一点の曇りもなく信じて聴くことはできないし、ましてやそこから「ヒロシマ」や原爆のことについてのメッセージを受け取り想いを馳せるなんてことはもう不可能だ。
それに、いくら割り切ろうとしたとしても、
音楽そのもとしてのみ純粋に音楽を受け取るなんてことはほぼ不可能だ。
今回のことについて「ほらみたことか、お前達は純粋に音楽を聴いていない。物語を聴いていただけだ。今回はそれが作り物だっただけだ。」という人も多いが、では純粋に音楽を聴くとは一体どういうことなのか説明して欲しい。
そういう人たちは、その作品の背後にあるものを全て(作家すらも)完全に切り離した上で、その作品を人間的な感性のみのガチンコ勝負で受け取っているというのだろうか。すごいなw ジョン・ケージじゃあるまいしw
作品と作家とは当たり前に不可分なのだ。これは芸術全てにあてはまる。
作品のテーマやその背景、作家の性格や哲学、作家が何に影響を受けそれを創作しえたのか、そこに付随する物語、
それらを元に作品の理解を深めるということは当たり前のことだし、それがなければ深い理解も感動もできるわけがない。
作品の背景や作家の哲学は作品に反映されるし、逆にその作品が作家自身に影響を与えたり作家を縛ったりすることもある。そうやって螺旋状に作品と作家はより強く結びついていく。そして作品と作家は丸ごと、より深く理解され、より高く評価されていくんだ。
だからインタビューを読んだり、著書を読んだりするんじゃないのか。少なくとも自分はそうだし、いままでもそうやってできるだけ作品に対する理解を深めようと自分なりに努力してきたつもりだ。それはこのブログの過去の記事を読んでもらえばわかってもらえるはず。
そしてそれはこの交響曲『HIROSHIMA』に対してもそうだ。作曲者(とされていた人物)が被曝二世であること。さらに全聾でありながらこの長大な交響曲を書き上げたということ。そこに込められたメッセージ。それが音としてどう響いているのか。それをどう解釈してどう受け取ったら良いのか。
かなりわかりづらかったから、長木誠司さんの解説やコメントを参考にしたりもした。そうやって自分なりの解釈でこの曲を聴いていた。
18万人全員がそうだとは言わないが、18万人の中の本当に音楽が好きな多くの人は、そうやってこの交響曲についての理解を深めようとしたはずだ。
だが、その一番根っこの部分に大きな嘘があった。
このたったひとつの真実の告発だけで、これまでのそれら全てがなかったことにできるのだろうか。
長木誠司氏や大友直人氏や東京交響楽団などの一流のプロの解釈やそれに基づいた演奏も含めて、自分たちがそう信じてそう聴いてきた音楽は、全部がなかったこととして、自らの感性の恥ずかしさとともにフタをして忘れ去ることができるのだろうか。
さらに言えば、だとしたらこの交響曲を真に把握している人間は誰一人としていないのではないか。
新垣氏の手元も離れ、佐村河内氏の手元も離れ(そもそも嘘で塗固められていたが)、曲のみが独り歩きし、たらい回しにされ、勝手に塗り替えられ、熱狂を受け、名前も意味も変わってしまった。
両親にさえ見捨てられ、自らの名前や存在意義すらも見失ってしまったのだ。
だとすればこの曲は「捨て子交響曲 "ポスト"」とでも呼ぶべきなのか?
おっとこれはさすがにブラックが効きすぎていたかw スポンサーいなくなっちゃうよw
あるいは虚構響曲「ゴースト」か。
だれかこの交響曲の再解釈の仕方を教えてくれ。このままじゃ気持ち悪くてしょうがない。
頭を壁にガンガン打ちつけたくなってくるぜwww
だけどそこに向き合わなければ、自分の感性やプライドに失礼ではないのか。
騙されてしまったまま「騙された!許せない!」とだけ叫んでこの曲を闇に葬ってしまうのか。
ならばわれわれにとっての交響曲とはなんだったのだ。旋律はなんでもよかったのか?
テーマは後乗せサクサクでもよかったのか。その旋律からは何も読み取れていなかったのか。真摯に受け取った「ヒロシマ」に対するメッセージすらも嘘だったのか。そのときの感動した気持ちも嘘だったのか。
われわれにとって音楽とはなんだったのか。いままでいったい何を聴いていたのか。芸術とはいったいなんなのか。
いやまてよ、、、もともとが嘘によって作られた名前も中身もない音楽だからこそ、こんなに不明確でわかりづらく響くのか?
だとしたらこれは、音楽的にものすごくおもしろいことが起きているんじゃないのか?
CDのヒットチャートにCD付き握手権やCD付きライブチケットばかりが連なる現代社会の音楽のあり方に対して、自らの存在をもって疑問を投げかけ、メディアや聴衆に対する皮肉を含み、さらにそこに現代に対するメタ的な視点さえも持ちえている交響曲なのか?
偽りに偽りが重なって創作されて、誇大に急速に拡散され、ひとりでに巨大に膨らんでいった結果、
その創作物を原案者も作曲者も含めて誰一人把握できていない。
交響曲自身すらもその音をもって自らを語り切れない。
ある意味すごく現代的で今日的な現象をこの交響曲は身をもって示している。現代典礼(笑)。
現代典礼とはよくいったものだw もう「交響曲第1番"現代典礼(笑)"」として再解釈する意外ないのかもしれない。
それくらい、この事件は、芸術に対してあまりに根源的で厳しい疑問を突きつけてしまった。
これは、音楽史に残る大問題だ。
著作権とか詐欺とか損害賠償とかそんな小さい問題でもないし、聴衆がばかだったとかメディアが悪いとかいうだけの問題でもない。誰かが謝って済むんだったら警察犬はいらねぇんだよ。
今日、「交響曲の歴史が終わった」という歴史認識自体が歴史的なものとなっている21世紀において、現代社会全体の合作として、かつてない方法によって、かつてない交響曲として、
われわれの信じる芸術とはいったいなにか?そこに本物なんて存在するのか?
そう旋律自体が直接的に響き、われわれに厳しく問いかけてくる、名前も心もなく、そこに責任をもつ者さえいない無機質で長大な交響曲が完成されてしまったのだ。
おいおい、ついに交響曲もここまできたかw
ちなみに、この問題には自分の中で既視感があった。
あのバンクシーが監督したドキュメンタリー映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』だ。
この映画のなかでバンクシーはあのマドンナのポップアートなジャケットでも知られるミスター・ブレインウォッシュが、実はニセモノであり虚構であるということを暴きながらも、その背景にある現代社会の芸術に対する姿勢や、そもそもの芸術の意味や価値とはなにかということまでを非常に鋭く我々に問う。
その映画を見たときも、MBWを笑ったり、MBWを高く評価した人たちを糾弾しても、この問題の本質にはたどり着けないと感じた。
この問いに対する明確な答えはみつからない。
われわれはいまだに芸術というものがなんなのか、その輪郭すらつかみきれていない。
もしかしたら、その真ん中には最初からなにもなかったのかもしれない。
いまひとつだけ言える教訓は、われわれが歴史の上の最先端の地に立っているという奢りを捨てて、自分自身の頭と感性で真剣に一から芸術と向き合いなさい。ということだろうか。
佐村河内氏の行為はれっきとした詐欺であり、聴覚障害を売り物にし、被爆者や被災者の想いを踏みにじるものである。
そこに対する怒りは自分の中でもものすごく大きい。
それでも、それにまんまと騙されてしまっていた自分の耳や目や感性に対する失望や怒りや恥ずかしさのほうがよほど大きい。
だから、せめてこの記事を書くことで、まんまと騙されてしまった自分の情けない感性に対する最大限の言い訳とさせてもらいたい。
連日の報道を見ていると、この問題に対しての関心の高さ(あるいはTV的なネタとしての面白さ)がうかがえる。
この報道を受けて多種多様な反応があった。
詐欺師だ、障害を売り物にした、ファンを欺いた、被爆者や被災者を愚弄した、という怒り。
著作権の所在はどこか、作曲とはなにか、作品と作家とはなにか、という問いと戸惑い。
物語を買っていた、音楽の聴き方とは、音楽の理解のされ方とは、という根源的な議論。
なぜ検証されなかったのか、なぜここまでミーハーな盛り上がりを見せてしまったのか、というメディア批判論や自虐的な大衆論。
たったひとつの大きなウソは、自らの化けの皮を剥がすと同時に、次から次へと現代の芸術やこの社会の化けの皮までも剥がしてしまったと言える。
様々な疑問や問題が次々と浮かび上がっては消えていくこの現象は、まるでタマネギの皮むきのようで、その中心には実は何もなかったのかもしれない。
しかし自分としては、どの報道を見ても、誰の記事を読んでも、あまりしっくりこない。
だれも、この問題の真に考えるべき本質を捉えていないと感じるからだ。
おいおい、この問題を矮小化しないでくれよ。著作権なんてもうどうだっていいし、メディア論なんて聞き飽きて耳にイカだぞ、大衆の音楽への向き合い方なんて音楽史が始まって以来ずっとそうだったろうに、なにを今更得意げに当たり前のことを言っているんだ、、、と思ってしまう。
この問題は、そんな小さな問題をつついたり、以前から指摘されていたような現代社会批判を蒸し返したりするだけでは到底済まされない、極めて重大な問題だと自分は思う。それをいまから自分なりに書いていきたい。

これが問題のCDだ(笑)。「交響曲第一番"HIROSHIMA"」
NHKスペシャル『魂の旋律〜音を失った作曲家』という番組で紹介され、大反響を巻き起こし、クラシックとしては異例の18万枚もの大ヒットを記録してしまった問題作である。
そう、自分はこれを持っている(爆笑)。いまはもう話題のCDではなく、被害者であり、踊らされたピエロであり、バカでミーハーな大衆のひとりであることの認定証となってしまったがwww
あまりにも恥ずかしいのでひとつ言い訳をしておくと、NHKスペシャルの放送は2013年3月31日だが、自分がこれを買ったのは2013年の2月6日よりも前だ。(確認したらiTunesにリッピングしたのが2/6だった)
といっても全聾ということは当然知ってから買ったし、2月の時点ですでに話題にはなり始めていたと記憶している。
しかし、3月31日以降には2月とは比較にならないほど大きな話題となり、CDショップには特設コーナーが設けられ、「NHKスペシャル」「現代のベートーベン」という文字が踊っていて、それには自分も違和感を感じていた。
だがその違和感は、誇大な売り方と熱狂的な受け止められ方に対してのいつもの感じであり、作品に対するものではなかった。
もうひとつ言い訳をさせてもらうと、自分は普段から(熱心なクラシックファンほどではないが)クラシックも一応は聴くし現代音楽も聴く。CDやレコードもそこそこ持っている。
このCDについても、どちらかというと全聾ということよりもヒロシマについて描いた作品であるということの方に関心があったし、曲を試聴してみてこれは一聴の価値があると判断したから買ったのだ。
特に、ロックやJAZZでもそうなのだが、自分は政治的なメッセージを含む音楽やコンセプチュアルな音楽が好きだ。
しかし現代の交響曲において、そういうメッセージを含む音楽というのは少ないように思う。(自分が無知なだけかもしれないが)
吹奏楽曲だが天野正道作曲の交響組曲「GAIA」は、ジェームズ・ラブロックの「ガイア理論」をもとに人類が地球環境にもたらす影響などについて描いており、非常に強いメッセージ性を帯びたコンセプチュアルな作品となっている。
あと、吉松隆によるオーケストラ版「タルカス」も素晴らしい。あんなに明確にコンセプチュアルな作品は他にないw まぁ冗談はさておいてw←
そういう音楽が好きな自分にとっては、全聾で被曝二世の作曲家がヒロシマについての交響曲を完成させたとなれば、聴いてみたくなるのは当然のことだった。
また、ひとつ前のindigo jam unitの紹介記事のように、自分は時代に流されずに明確な信念を持って作られる創作物を求めてきたし、それが「本物」であるかを見極める能力を自分なりに磨いてきたつもりだった。
そしてこの「HIROSHIMA」を聴いて、コンセプトが明確な割にはわかりづらくて掴みづらい助長な曲であり、絶望に落ちては彷徨って上がって、また落ちて彷徨ってはまた上がってという難解で出口の見えなさがあるが、最後の最後は明確な希望へと導いてくれる曲であり、全聾であるからこそこの曲調になったのではないかとさえ感じ、世間の評判ほどに騒がれる音楽ではないがこれは「本物」であると確信していた。(これは本気で恥ずかしい。自分の耳や目や感性に心底腹が立つ。)
ちなみにさっきAmazonを見てみたらプレミアが付いていたが、その現象だって同じことを繰り返してるだけじゃないかアホらしいw ミーハーどもめw と思ってしまう。←
Amazonのレビューも炎上しているが、ここでもちぐはぐで表面的な意見ばかりが目立つと感じる。

演奏は、日本クラシック界最高峰の大友直人指揮の東京交響楽団だ。しかもライブ録音ではなくてセッション録音だ。
これを一体どう疑えと言うのだw 無理だろ!お前ら普段オーケストラなんか聞きもしないくせにここぞとばかりに買った18万人をバカにしてんじゃねぇぞアンポンタン!(半泣き)
そう。大友直人や東京交響楽団の団員、楽曲解説とコメントを寄せた長木誠司、日本コロムビアのスタッフ、そして当時この曲を評価した音楽評論家達、彼らでさえも皆まんまと騙されてしまっていたわけだ。
いまになって、「やっぱりな」とか「わかっていた」的なことを「誤解を恐れずあえて言わせてもらうが」的な前置きをしたうえで言い出す評論家や聴衆たちには「わかってたのはわかったからちょっと黙ってろオタンコナス」と言いたい。

読めますかね?もう著作権とか知ったこっちゃない状態だし、肝心の中身に触れられる機会が極端に少なくなってしまったので、解説やコメントなどのブックレットの写真を全ページ分載せます。
これは東京大学大学院教授で音楽学者の長木誠司氏のコメント。

いま曲を聴きながら読んでいても、なるほどなと感じる。(後で詳しく書くが、それこそが大問題なのだ。)
苦悩や病理の自覚化による交響曲への昇華を初めて試みたのはマーラーであると指摘し、しかし戦後30年経ってから西洋音楽へ参入し自らの非同時性を認知した日本の創作では、あまりにも文脈が違い過ぎてそんな音楽を書く意味がなかった。また「ヒロシマ」を問題にすることは逆に政治性を帯びすぎて(文脈に適合しすぎて)難しかった。
としたうえで、佐村河内はあまりに大きな政治性と歴史的時宣性を帯びた「ヒロシマ」というテーマを個人の苦悩として語れるようになった歴史的位置にいる。と書いている。
「そこではもはや『交響曲の歴史が終わった』という歴史認識自体が歴史的なものとなっている。」
「もしわれわれがこの長大で、形式的には晦渋な交響曲を少しでも難解だと感じることがあるとすれば、それは21世紀のわれわれがあまりにもこの作品を深く「理解」し、その世界に「共感」してしまっているからにすぎない。」
なるほど納得のさすがの考察だ。これによってこの作品を受け入れ理解を深めることができたのは紛れもない事実だ。
(そして、それが大問題なのだ。)

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「作曲者自身(佐村河内)のコメントによれば、第1楽章が「運命」、第2楽章が「絶望」、第3楽章が「希望」とされている。」


第2楽章、第3楽章の解説文では一文目で「形式的に明確ではない」ということが書かれている。(これも重要。)

このプロフィールもめっちゃウケるwww

英文での解説までついちゃってるんですよこれ。どうするんですかw。

大友直人さんと東京交響楽団の紹介。彼らも被害者であるが、日本オーケストラ界最高峰の彼らが譜読みによって理解と解釈を経て、演奏し表現し、ホールに高らかに響いたその音楽は、その時点では紛れも無く「HIROSHIMA」であったはずなのだ。

最後はプロダクションノート。
「佐村河内さん自身は、この作品を闇の音楽と呼んでいます。(中略)80分の旅を経て、最後の天昇コラールが鳴り響いたときの感動、それはまさに闇に降り注ぐ「希望の曙光」に感じられます。」とある。その通りだ。この音楽は当時、そう解釈する意外考えられなかった。
では、ここから問題の核心に触れていこうと思う。
この曲を実際に作曲していたのは、佐村河内氏ではなく、ゴーストライターの新垣氏であった。
それだけならまだよかった。「騙された!ふざけんな!ペテン師め!金返せ!」と叫ぶだけで済んだ。
しかし、新垣氏はこの作品をゼロから作ったわけではなかったのだ。
佐村河内氏の独自の図形譜面や細かいメモによる「発注書」をもとに作曲していたのだ。

その「発注書」がこれだ。
これはなかなか興味深い。かなり細かくダイナミクスや音のブレンド、情感表現まで指示されている。
現代音楽ではなく調性音楽として、伝統的西洋音楽の方法論をふんだんに取り入れて、しかしそれを非常に現代的で野心的なものにアップデートしてやろうという野心をひしひしと感じさせるものになっている。
問題なのはこれが『HIROSHIMA』ではなく、「祈り部」「啓示部」「受難部」「混沌部」の4つの主題によって展開される『現代典礼』という曲だということだ。
当然、新垣氏はこの発注通りに『現代典礼』という曲を作曲したのだ。
しかし、そのできあがった交響曲を『HIROSHIMA』として売り出してしまったのは他でもないこの曲の原案者である佐村河内氏なのだ。
この発注書を見ただけでは、どれほど明確に佐村河内氏の頭の中で音楽が鳴っていたかまではわからない。
しかし、少なくともイメージや主題、曲の根幹となる部分についてはこの時点では明確だったように思える。
そして、新垣氏も「この発注書がなければ自分はこの曲を作曲できなかった」という発言をしている。
それだけ明確なイメージと輪郭を自分の中に持っていたにもかかわらず、佐村河内氏はこの曲を『HIROSHIMA』として世に送り出した。しかも自分で「第1楽章が「運命」、第2楽章が「絶望」、第3楽章が「希望」である。と語り、「原爆投下直後の二十分を描く」とまで語っている。
だが当然のことながら新垣さんが作曲した時点では「原爆のことは全くイメージしていなかった。」のだ。
この嘘にまみれた悲劇の交響曲を、われわれは、どう再解釈したらよいのだろうか。
これこそがこの問題の核心である。
純粋に曲としてのことだけを考えれば、「これは編集者として佐村河内氏が発注したものを新垣氏が作曲した『現代典礼』という曲である。」と解釈し直すことができる。
「この曲を気に入った人は、これからは新垣さんの曲として純粋な気持ちで聴けば良い。」という意見も散見する。
しかし、そんな簡単に済ませてしまうことはできないはずである。
そこにはいくつかの理由があるが、ひとつは原案者である佐村河内氏自身が、このできあがった曲を再解釈し『HIROSHIMA』として売り出してしまっている点だ。
(ここで問題となるのは「楽譜が書けないということは正確な譜読みもできなかったのではないか」という疑惑と「実は全聾ですらなかったのではないか」という疑惑。できあがった『現代典礼』はその時点では譜面なので、それを読めなかったのであれば再解釈して題名を変えるなんてできるはずがない。あるいは聴こえていたのだとしたら、曲を聴いて彼の中で明確に再解釈して『HIROSHIMA』として売り出したのかもしれない。そしてもうひとつは、ただ話題性を得るためだけに音楽的なことは全く無視して題名だけ『HIROSHIMA』として売り出したのではないかという疑惑。)
そしてもう一点、上述の()内の過程がどうであれ、この交響曲は『HIROSHIMA』として広島交響楽団によって世界初演され、それを引き継いで広島初演版に基づく改訂版の第1,第3楽章が大友直人指揮の東京交響楽団によって東京初演されたのだ。その時点で、この曲の解釈も表現も、そしてホールに響く音楽も、紛れもなく『HIROSHIMA』であったのだ。
そしてそれはそのまま聴衆に『HIROSHIMA』として受け入れられ、そこに込められた(とされた)メッセージも曲を通して真摯に受け取られて、高く評価された。この時点での評価は純粋に『HIROSHIMA』というこの交響曲に対してのものであったはずだ。
そしてその後、さらにメディアの誇大な物語先行の宣伝によって、全聾であることと被曝二世であることが広く知られ、それを前提とした大衆による熱狂的な評価に再び塗り替えられたのだ。これは広島および東京初演時の評価や解釈とさえもまた異なっている。
では、交響曲はいつ完成するのだろうか?
楽譜が出来上がったときだろうか。実際にオーケストラによって鳴らされたときだろうか。
聴衆に受け取られ、評価されたときだろうか。それとも遥かなときを超えて普遍的な評価が定まったときだろうか。
この交響曲はいったいなんなのか、これからなんと呼べばいいのだろうか。
もとは新垣氏作曲の『現代典礼』かもしれないが、日本最高峰の一流のオーケストラによって再解釈・再構築され『HIROSHIMA』としてすでにわれわれに届けられてしまったではないか。
そして一流の音楽学者である長木誠司氏の解説やコメントによって、曲を聴いただけではわかりづらく難解だと思っていたそれに明確な解釈の仕方を見いだしてしまったではないか。
その証拠に、この原案の発注書を見てこの曲を聴きながら『現代典礼』として再解釈しようとしても、どうもしっくりこない。
だが、嘘が暴かれてしまったいま、この曲が『HIROSHIMA』であると一点の曇りもなく信じて聴くことはできないし、ましてやそこから「ヒロシマ」や原爆のことについてのメッセージを受け取り想いを馳せるなんてことはもう不可能だ。
それに、いくら割り切ろうとしたとしても、
音楽そのもとしてのみ純粋に音楽を受け取るなんてことはほぼ不可能だ。
今回のことについて「ほらみたことか、お前達は純粋に音楽を聴いていない。物語を聴いていただけだ。今回はそれが作り物だっただけだ。」という人も多いが、では純粋に音楽を聴くとは一体どういうことなのか説明して欲しい。
そういう人たちは、その作品の背後にあるものを全て(作家すらも)完全に切り離した上で、その作品を人間的な感性のみのガチンコ勝負で受け取っているというのだろうか。すごいなw ジョン・ケージじゃあるまいしw
作品と作家とは当たり前に不可分なのだ。これは芸術全てにあてはまる。
作品のテーマやその背景、作家の性格や哲学、作家が何に影響を受けそれを創作しえたのか、そこに付随する物語、
それらを元に作品の理解を深めるということは当たり前のことだし、それがなければ深い理解も感動もできるわけがない。
作品の背景や作家の哲学は作品に反映されるし、逆にその作品が作家自身に影響を与えたり作家を縛ったりすることもある。そうやって螺旋状に作品と作家はより強く結びついていく。そして作品と作家は丸ごと、より深く理解され、より高く評価されていくんだ。
だからインタビューを読んだり、著書を読んだりするんじゃないのか。少なくとも自分はそうだし、いままでもそうやってできるだけ作品に対する理解を深めようと自分なりに努力してきたつもりだ。それはこのブログの過去の記事を読んでもらえばわかってもらえるはず。
そしてそれはこの交響曲『HIROSHIMA』に対してもそうだ。作曲者(とされていた人物)が被曝二世であること。さらに全聾でありながらこの長大な交響曲を書き上げたということ。そこに込められたメッセージ。それが音としてどう響いているのか。それをどう解釈してどう受け取ったら良いのか。
かなりわかりづらかったから、長木誠司さんの解説やコメントを参考にしたりもした。そうやって自分なりの解釈でこの曲を聴いていた。
18万人全員がそうだとは言わないが、18万人の中の本当に音楽が好きな多くの人は、そうやってこの交響曲についての理解を深めようとしたはずだ。
だが、その一番根っこの部分に大きな嘘があった。
このたったひとつの真実の告発だけで、これまでのそれら全てがなかったことにできるのだろうか。
長木誠司氏や大友直人氏や東京交響楽団などの一流のプロの解釈やそれに基づいた演奏も含めて、自分たちがそう信じてそう聴いてきた音楽は、全部がなかったこととして、自らの感性の恥ずかしさとともにフタをして忘れ去ることができるのだろうか。
さらに言えば、だとしたらこの交響曲を真に把握している人間は誰一人としていないのではないか。
新垣氏の手元も離れ、佐村河内氏の手元も離れ(そもそも嘘で塗固められていたが)、曲のみが独り歩きし、たらい回しにされ、勝手に塗り替えられ、熱狂を受け、名前も意味も変わってしまった。
両親にさえ見捨てられ、自らの名前や存在意義すらも見失ってしまったのだ。
だとすればこの曲は「捨て子交響曲 "ポスト"」とでも呼ぶべきなのか?
おっとこれはさすがにブラックが効きすぎていたかw スポンサーいなくなっちゃうよw
あるいは虚構響曲「ゴースト」か。
だれかこの交響曲の再解釈の仕方を教えてくれ。このままじゃ気持ち悪くてしょうがない。
頭を壁にガンガン打ちつけたくなってくるぜwww
だけどそこに向き合わなければ、自分の感性やプライドに失礼ではないのか。
騙されてしまったまま「騙された!許せない!」とだけ叫んでこの曲を闇に葬ってしまうのか。
ならばわれわれにとっての交響曲とはなんだったのだ。旋律はなんでもよかったのか?
テーマは後乗せサクサクでもよかったのか。その旋律からは何も読み取れていなかったのか。真摯に受け取った「ヒロシマ」に対するメッセージすらも嘘だったのか。そのときの感動した気持ちも嘘だったのか。
われわれにとって音楽とはなんだったのか。いままでいったい何を聴いていたのか。芸術とはいったいなんなのか。
いやまてよ、、、もともとが嘘によって作られた名前も中身もない音楽だからこそ、こんなに不明確でわかりづらく響くのか?
だとしたらこれは、音楽的にものすごくおもしろいことが起きているんじゃないのか?
CDのヒットチャートにCD付き握手権やCD付きライブチケットばかりが連なる現代社会の音楽のあり方に対して、自らの存在をもって疑問を投げかけ、メディアや聴衆に対する皮肉を含み、さらにそこに現代に対するメタ的な視点さえも持ちえている交響曲なのか?
偽りに偽りが重なって創作されて、誇大に急速に拡散され、ひとりでに巨大に膨らんでいった結果、
その創作物を原案者も作曲者も含めて誰一人把握できていない。
交響曲自身すらもその音をもって自らを語り切れない。
ある意味すごく現代的で今日的な現象をこの交響曲は身をもって示している。現代典礼(笑)。
現代典礼とはよくいったものだw もう「交響曲第1番"現代典礼(笑)"」として再解釈する意外ないのかもしれない。
それくらい、この事件は、芸術に対してあまりに根源的で厳しい疑問を突きつけてしまった。
これは、音楽史に残る大問題だ。
著作権とか詐欺とか損害賠償とかそんな小さい問題でもないし、聴衆がばかだったとかメディアが悪いとかいうだけの問題でもない。誰かが謝って済むんだったら警察犬はいらねぇんだよ。
今日、「交響曲の歴史が終わった」という歴史認識自体が歴史的なものとなっている21世紀において、現代社会全体の合作として、かつてない方法によって、かつてない交響曲として、
われわれの信じる芸術とはいったいなにか?そこに本物なんて存在するのか?
そう旋律自体が直接的に響き、われわれに厳しく問いかけてくる、名前も心もなく、そこに責任をもつ者さえいない無機質で長大な交響曲が完成されてしまったのだ。
おいおい、ついに交響曲もここまできたかw
ちなみに、この問題には自分の中で既視感があった。
あのバンクシーが監督したドキュメンタリー映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』だ。
この映画のなかでバンクシーはあのマドンナのポップアートなジャケットでも知られるミスター・ブレインウォッシュが、実はニセモノであり虚構であるということを暴きながらも、その背景にある現代社会の芸術に対する姿勢や、そもそもの芸術の意味や価値とはなにかということまでを非常に鋭く我々に問う。
その映画を見たときも、MBWを笑ったり、MBWを高く評価した人たちを糾弾しても、この問題の本質にはたどり着けないと感じた。
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この問いに対する明確な答えはみつからない。
われわれはいまだに芸術というものがなんなのか、その輪郭すらつかみきれていない。
もしかしたら、その真ん中には最初からなにもなかったのかもしれない。
いまひとつだけ言える教訓は、われわれが歴史の上の最先端の地に立っているという奢りを捨てて、自分自身の頭と感性で真剣に一から芸術と向き合いなさい。ということだろうか。
佐村河内氏の行為はれっきとした詐欺であり、聴覚障害を売り物にし、被爆者や被災者の想いを踏みにじるものである。
そこに対する怒りは自分の中でもものすごく大きい。
それでも、それにまんまと騙されてしまっていた自分の耳や目や感性に対する失望や怒りや恥ずかしさのほうがよほど大きい。
だから、せめてこの記事を書くことで、まんまと騙されてしまった自分の情けない感性に対する最大限の言い訳とさせてもらいたい。
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コメントありがとうございます。
大変嬉しいコメントをありがとうございます。
お二方ともコメントは非公開とのことでしたので、コメントの内容にはあまり触れずに、
ここでお礼の言葉だけ述べさせて頂きます。
自分にとってとても自信になる嬉しいコメントでした。
ありがとうございました。
ひとつだけ内容に勝手に触れさせて頂きますが、
「クラシックという権威に対する弱者のカウンターパンチ。」
という言葉は非常に鋭いですね。
なるほど!と思いました。
「交響曲の歴史が終わった」という歴史認識自体が歴史となり、全てやり尽くされて終わってしまった交響曲の歴史の全てを学び尽くした現代の作曲家達が、無調性音楽としての現代音楽にしか興味が向かなくなったという現実は、その奢りや皮肉も含めて「クラシックという権威」という言葉で表される状況だと思います。
そこに対し、現代では成立し得ないはずの、完全な調整音楽としての、大編成のオーケストラと80分にも及ぶ長大な、伝統的で王道の壮大な交響曲第1番。
クラシックの様々な時代の様々な技法や方法論を内包し、大編成のオーケストラとして、終楽章の最後の最後などはほとんどマーラーの焼き直しですらあるこの長大で難解な交響曲第1番。
まさに「クラシックという権威に対する弱者のカウンターパンチ。」ですね。
そして、公共放送を謳う「いい話大好きな」天下のNHKにも、奢りのあったクラシックの聴衆や、無自覚的に流されやすい現代の大衆にさえ、まんまとくらわせたというのわけですね。
クラシックの全ての歴史も、その上に立つ現在地も、そして現代社会のあり方すらも、
まるごと全てをあざ笑うかのような、痛快で難解で、恐ろしくも美しい、野心的で長大な交響曲第1番が、ついに完成してしまったのですねー。
もう爆笑するしかないw どうしたって顔がひきつってしまいますがw
また、これもコメントにありましたが、この喜劇のような現実を受けて、他の芸術がどういう回答を見せてくれるのかというのも見物ですねー。
自分としては、現時点でこの曲のこういう部分について語る評論家やジャーナリスト、あるいは芸術家がほとんどいないということが残念で仕方ありませんが。
いろんな記事を見ていてもありきたりで表面的でくそつまんねぇあまりおもしろくない記事ばかりだなと感じます。
「この曲を高く評価した音楽評論家たちは何をやっていたんだ!」「オーケストラや指揮者や音楽関係者は一体何を聴いていたんだ!」という意見には同意しかねます。
だってその時点では紛れも無く評価されてしかるべき、現代においては非常に野心的な超大作「交響曲第1番"HIROSHIMA"」だったのですから。
過去の評価などではなく、いままさに!「音楽評論家達は何をやっているんだ!」「オーケストラや指揮者や音楽関係者は一体何をやっているんだ!」と言われるべきなんです。
偶然か必然か、はたまた運命のいたずらか、交響曲の歴史が終わったとされた遥か後に生まれてしまったこの「交響曲とはいったいなんなのか?」という根源的な問いに誰も答えようとしていないのですから。
お二方ともコメントは非公開とのことでしたので、コメントの内容にはあまり触れずに、
ここでお礼の言葉だけ述べさせて頂きます。
自分にとってとても自信になる嬉しいコメントでした。
ありがとうございました。
ひとつだけ内容に勝手に触れさせて頂きますが、
「クラシックという権威に対する弱者のカウンターパンチ。」
という言葉は非常に鋭いですね。
なるほど!と思いました。
「交響曲の歴史が終わった」という歴史認識自体が歴史となり、全てやり尽くされて終わってしまった交響曲の歴史の全てを学び尽くした現代の作曲家達が、無調性音楽としての現代音楽にしか興味が向かなくなったという現実は、その奢りや皮肉も含めて「クラシックという権威」という言葉で表される状況だと思います。
そこに対し、現代では成立し得ないはずの、完全な調整音楽としての、大編成のオーケストラと80分にも及ぶ長大な、伝統的で王道の壮大な交響曲第1番。
クラシックの様々な時代の様々な技法や方法論を内包し、大編成のオーケストラとして、終楽章の最後の最後などはほとんどマーラーの焼き直しですらあるこの長大で難解な交響曲第1番。
まさに「クラシックという権威に対する弱者のカウンターパンチ。」ですね。
そして、公共放送を謳う「いい話大好きな」天下のNHKにも、奢りのあったクラシックの聴衆や、無自覚的に流されやすい現代の大衆にさえ、まんまとくらわせたというのわけですね。
クラシックの全ての歴史も、その上に立つ現在地も、そして現代社会のあり方すらも、
まるごと全てをあざ笑うかのような、痛快で難解で、恐ろしくも美しい、野心的で長大な交響曲第1番が、ついに完成してしまったのですねー。
もう爆笑するしかないw どうしたって顔がひきつってしまいますがw
また、これもコメントにありましたが、この喜劇のような現実を受けて、他の芸術がどういう回答を見せてくれるのかというのも見物ですねー。
自分としては、現時点でこの曲のこういう部分について語る評論家やジャーナリスト、あるいは芸術家がほとんどいないということが残念で仕方ありませんが。
いろんな記事を見ていてもありきたりで表面的で
「この曲を高く評価した音楽評論家たちは何をやっていたんだ!」「オーケストラや指揮者や音楽関係者は一体何を聴いていたんだ!」という意見には同意しかねます。
だってその時点では紛れも無く評価されてしかるべき、現代においては非常に野心的な超大作「交響曲第1番"HIROSHIMA"」だったのですから。
過去の評価などではなく、いままさに!「音楽評論家達は何をやっているんだ!」「オーケストラや指揮者や音楽関係者は一体何をやっているんだ!」と言われるべきなんです。
偶然か必然か、はたまた運命のいたずらか、交響曲の歴史が終わったとされた遥か後に生まれてしまったこの「交響曲とはいったいなんなのか?」という根源的な問いに誰も答えようとしていないのですから。
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